吉田城跡 - 城主・吉田周孝は吉田東洋の祖





[ 高知県南国市岡豊町吉田 ]


此処は、長宗我部元親の父・国親が、手を組んだ吉田周孝の居城跡・吉田城ながです。

この吉田周孝の十三代後の子孫が、土佐勤王党に暗殺された吉田東洋ながです。

吉田東洋墓所 - 幕末の土佐に必要不可欠な人じゃった 2010.10.10


宮地佐一郎著「長宗我部元親」 には次のようにある。(以下、抜粋)

「この吉田家は藤原秀郷の末裔で、相州鎌倉(神奈川)の山内首藤家より出て、足利氏に所属して、土佐江村郷に来住、十四ヶ村を所領した豪族であった。

周孝は国親と結託して長宗我部氏の宿老として尽力してゆく。

周孝は知勇にすぐれ、その弟重俊その子親家は、のちに大備後、小備後と称されて、土佐戦国から四国戦線に勇将として、名をとどろかした人物である。

慶長六年(1601)山内家入国の後も、吉田家は見出されて上士に取り立てられ、藩政末期に山内容堂を支えた、名宰相吉田東洋を出している。・・・・・」


土佐吉田氏で調べたら、吉田周孝(別名・吉田孝頼)は土佐吉田氏で中臣鎌足の末裔を称し、藤原秀郷の子孫の首藤俊宗が足利尊氏に従い、功あって土佐に領地を得たことが始まりのようなが。

その首藤俊宗の弟の首藤俊氏が後に山内氏を名乗って尾張に住んで、後に山内一豊の先祖になったとか・・・。

現在、吉田城址は、一部が墓地になっちょり面影もないけんど、周囲の所々に当時の土塁・掘割じゃないかと思うような場所もみられるがです。

また、吉田備後守邸跡碑(吉田備後守重俊)のある場所にゃ、城八幡が祀られ、直ぐ横にゃ一族の墓石だと思われる小さな石塔が数基祀られちょります。

この吉田備後守邸跡碑は南向きに建てられちょりますが、多分、建立当時は周辺に民家が無かったか、田畑が広がっちょたがでしょうか。

今じゃ、写真(下の端)のように、碑の直ぐ1mばかりに民家が建っちょります。

当時、ちゃんと整備して史跡として守っておれば、こんな事にゃならんかったのにと、残念に思うがです。


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment