河野万寿弥(敏鎌) - 土佐勤王党に7番目に加盟



[ 高知県高知市上町2丁目 ]


恥ずかしながら最初は、河野敏鎌をかわのとしかまと思うちょったけんどこうのとがまと読むがじゃそうですねー。

読めんかった・・・(^^ゞ

河野万寿弥(敏鎌)が江戸に出たのが安政6年(1859)の事で、土佐の塾生として池内蔵太らーと安井息軒の門人として3年間学問に励み、同郷の友や諸国の志士らと交流し親交を深めるがです。

文久元年(1861)4月に江戸に武市半平太が出て来ると、その年の8月に土佐勤王党は結成され、7番目に血判連盟するがです。

そんで同志を募るため、半平太と土佐に戻んて来て、9番目に加盟したがが坂本龍馬ながです。

文久2年(1862)、自発的組織・五十人組にも加わちゅう。

因みに、五十人組ちゅうがは、参勤交代の暖和をはかった松平春嶽や容堂らが恨みをかい、その襲撃の恐れがあると言う噂が流れちょったと。

そんな折、勅使・三条実美が江戸へ下る事になり、その護衛を土佐藩主・山内豊範がすることになるけんど、その豊範の行列に随行できんかった土佐勤王党の同志たちが自発的に結成した警護部隊ながです。

所が、土佐勤王党のメンバーらーは皆ー貧しゅうて、随行したくても費用が工面できん・・・。

それを、島村寿之助(18番目・五十人組総頭の一人)らーが資金援助しちょります。

その五十人組じゃ3番組伍長として参加し、配下にゃ庄村良達(191番目)・田所庄之助(56番目)・島地磯吉(51番目)・村田忠三郎(47番目)が居った。

そんで、江戸で予定通り容堂の護衛にあたったのち、自然解散となっちょります。

坂本龍馬が、文久2年(1862)3月24日に脱藩した時にゃ、見送りにも行っちょりますねー。

龍馬もそうじゃけんど、吉村虎太郎らーも含めて、当初、土佐勤王党に加盟しちょった同志らーが次々と離党し脱藩していくがは、やはり武市半平太の抱いた一藩勤王思想などは不可能で妄想だと思う考え方の違いからも、起こった事ながでしょう。

文久3年(1863)、八月十八日の政変と呼ばれる、中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放する政治クーデターが起こると、土佐にも土佐勤王党への弾圧がはじまるがです。

河野万寿弥も、9月に山田獄舎へ投獄され、土佐勤王党への結審で永牢処分を受けちょります。

因みに、この河野万寿弥(敏鎌)生誕地碑の両脇にゃ、獄洋社跡婦人参政権発祥之地碑が建っちょります。



獄洋社跡 - 自由民権運動の政治結社 2010.12.10

婦人参政権発祥之地碑 - 日本で最初に女性参政権が認められた 2010.12.11

[ 出典・参考・抜粋 ]

『坂本龍馬大辞典』 新人物往来社
河野敏鎌 - Wikipedia




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1 Comments

オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: 山本さんへ

オンチャン(とさっぽ)">

こじゃんと嬉しいコメントありがとう。


2010/12/14 (Tue) 12:06 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

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