田口文良墓 - 龍馬の志を受け継いだ一人



[ 高知県高知市山手町・丹中山 ]


弘化2年(1845)、高知城下北奉公人町に医師・田口求道の長男として生まれ、明俊と言うがです。

この、お父さん・求道も名医として知られた人ながです。

田口文良は医者に成ることを志、医学修得のため大坂・江戸・横浜で西洋式医学を学び、文久元年(1861)に修学を終え土佐に戻り家業を継いで開業しちょります。

けんど時代は、幕末。

文久元年(1861)土佐勤王党が結成されると、彼も医者の身ながら尊王に燃え、土佐勤王党に加盟し国事に奔走するがです。

文久2年(1862)、山内容堂を警護すべく五十人組に参加する事を希望するが、大勢の同志が参加希望をした為、事は叶わんかった。

戊辰戦争に迅衝隊付の軍医として尽力し、その功績により新留守居組に昇進し、明治維新後は医学司調長などを務めており高知県の医学発展に多大なる貢献をしちょります。

この戊辰戦争で迅衝隊が使用した銃は、坂本龍馬が長崎より運んだライフル千丁も含まれちゅうろーし、それに銃術の指導を受けたのは、龍馬の親友・溝渕廣之丞からじゃったろー。

残念ながら龍馬の描いた戦の無い倒幕は叶わんかったけんど、龍馬の志は田口文良にも受け継がれ、新しい国創りのために、志を繋いで行ったがです。

明治17年(1884)2月10日、40歳で没しています。

田口文良も武市半平太も、龍馬も、それに多くの志士らーも、志半ばで逝ったかも知れんけんど、幕末を全力で駆け抜けて行った事には間違いなく、それぞれに人生をまっとうして、我々に、この国を託して逝ったと言う思いは忘れちゃー遺憾。

声が聞こえそーやか・・・後の事たー、おまんらーに任いたぜよ・・・・。
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2 Comments

天の声">

天の声  

Re: まかいちょいてや!

天の声">

> 龍馬がいう、志あるモノというのは「自分だけ、自分の周りだけ」が幸せになればいいというような狭い心では無いと信じたい。・・・

その通りじゃき。
保育所と幼稚園を一本化すると言う事自体むなしい発想。
そもそも、保育内容が違う。
これから育っていく子供らーが延び延びと育んで行く芽を摘み取る事にも結びつくろー。

今の子供らーが、大きくなって日本に生まれて良かった、何処そこに生まれて良かった、と思えるような地域に密着し、地元を愛する気持ちを持つ様な子供を育てるのが行政の役目。
なんか、学校教育自体がある時期から間違った方向に来ちゅう。

その一つが、日本の保育システムを変えようとしている「新システム」じゃと思うちゅう。
何としてでも、阻止して、歪められた学校教育を改める時期にきちゅうねー。

おりがみ さん、頼むぜよ。
まかいたき!

2010/11/15 (Mon) 18:48 | 天の声さん">REPLY |   

おりがみ  

まかいちょいてや!

・・とえらそーな事はいえませんが、「保育の集会」に参加してきました。
日本の保育をめちゃくちゃにしようとしている「新システム」はいかんゼヨ!と言う立場です。
龍馬がいう、志あるモノというのは「自分だけ、自分の周りだけ」が幸せになればいいというような狭い心では無いと信じたい。親の収入や能力で子どもが入れる保育所に差をつけるような「システム」では明治以前に逆戻りとおもうから・・。

2010/11/15 (Mon) 09:09 | EDIT | REPLY |   

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