溝渕廣之丞墓 - 嘉永6年坂本龍馬と一緒に江戸に出る



[ 高知県高知市泰仙寺・西天場山 ]


溝淵廣之丞は、文政11年(1828)に土佐郡江ノ口村(現・高知市)に生まれちょり、名を義直と言うがです。

墓は、ご夫婦の墓になっちょり、墓碑にや坂本龍馬の名も刻まれちょります。

元稱廣之丞資性寛厚身體剛健
壮年出国興坂本龍馬等盡千國事

溝淵廣之丞は、嘉永6年(1853)に江戸に出て、千葉定吉道場で剣術を、佐久間象山塾で砲術を学んじゅうがです。

この時、坂本龍馬も、父・八平さんから「修業中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞と一緒に江戸出て千葉道場にで剣術の修行に励んだ事は、龍馬ファンはご存知の通りじゃき。

慶応2年(1866)にゃ、長崎に赴いて砲術を学ぶがです。

この時、脱藩中の坂本龍馬や長州の桂小五郎らと会い時勢論を交わし、長州再征休戦後の長州・土佐藩の復交に重要な役割を果たしたがです。

また、慶応3年(1867)1月13日に行われた坂本龍馬と、土佐藩参政・後藤象二郎の清風亭での会談を仲介したのも、溝淵広之丞の働きがあったがです。

坂本龍馬と後藤象二郎の会談がもたらしたものは、土佐藩が坂本龍馬らの脱藩を解き、亀山社中を土佐藩の外郭組織・海援隊を誕生させ、やがて明治維新の直接的な切っ掛けとなった大政奉還へと繋ぐ、歴史的な会談じゃったがです。

土佐にあっては上士と郷士の関係であるが、時代が二人に歴史を推し進めるために必要不可欠なジグソーパズルのピース一片ような役割を与えた以上に、お互いがお互いを人物と見込み共に手を結んだがじゃろー・・・。

慶応3年(1867)土佐に帰国後、土佐藩の持筒役となり、藩兵に砲術指導をする。

その後の戊辰戦争で出兵した土佐藩の藩兵の中にゃ、教えを受けた者もおるろーし、龍馬と一緒に行動はしちゃーせんけんど、龍馬を助け援護し、彼も側面から明治維新を創りあげた志士の一人と言えよう。

維新後は官職に就かず、家督も養子に譲り、悠々自適の生活を送ったとか・・・。

明治42年7月4日に享年82歳でみてちゅう。

妻・貞さんは明治28年に60歳で亡くなっちゅうがです。

因みに土佐じゃ、寿命をまっとうして他界した場合みてる(みてた)と言い、事故や病気など短命で惜しまれて他界した場合亡くなったと表現するがです。

土佐弁も、情緒豊かぜよ。


[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  
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