蘇我神社 - 蘇我氏子孫が波川氏になり、長宗我部に滅ぼされる





[ 高知県吾川郡いの町波川 ]


自転車で走りよったら「蘇我神社」と言うお宮さんあったき、気になってチックと寄ってみたが。

こんな所に、蘇我?・・・って感じやけんど、詳しい由来書ものうて、ただ高札にゃ御祭神・石川宿祢命と書かれちょります。

と言う事は、やっぱり蘇我氏を祭ったお宮さんやった。

元は曾我と言う名を、八代・孝元天皇の御子・彦太忍信命の孫に当る武内宿祢の第三子・石川宿祢が姓を蘇我と改めたとか・・・

この蘇我石川宿禰は、日本神話に出てくる蘇我氏の祖とされる・・・。

その一族の子孫と言う蘇我国光が、鎌倉時代の建久年間(1190-1198)に、幕府から土佐に派遣され、此処・波川(伊野)を領して勢力を伸長したそうながです。

その後、波川氏を名乗るようになり、天正8年(1580)まで、代々波川氏の統治が続いたがじゃけんど、波川玄蕃城主・清宗は長宗我部元親軍と戦こうて、一族は滅ぼされるがです。

ただ一人四男・波川蘇我祐左衛門清信は家臣と共にひそかに脱出し生き延び、慶長5年(1600)長宗我部が滅びた後この地に戻ったそうながです。

この神社は、その子孫が建てた神社じゃとか・・・。


波川清宗は長宗我部国親に側近として仕え、一条兼定を滅ぼした功で、国親の娘・養甫(長宗我部元親の妹)を正室に迎え入れ、長宗我部家一門の一人となる。

その後も長宗我部元親の四国統一に大きく貢献するが、伊予国・河野氏から長宗我部軍に寝返った大野直之を援護する為に派兵されたが、河野氏の援軍に訪れた小早川隆景軍と単独で和睦を結んで直之を見捨てて退却するなど、失政が多く蟄居させられる。

その不満から天正8年(1580年)に反乱を企んだが、露見し阿波へ逃れたが詰め腹を切らされたと伝えられる。

ただ一人生き残ったの四男・清信の系統は、明治まで続いていたとか・・・。


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