須崎湾 - 坂本龍馬、生涯で二度須崎湾に入港


城山よりの眺め

土佐藩砲台跡下の、富士ヶ浜からの眺め

四国霊場/別格二十霊場第5番札所・大善寺よりの眺め

[ 高知県須崎市 ]


此処、須崎湾は、リアス式海岸にある天然の良港として知られちょり、幕末期にゃ異国船からの海岸防備を目的に土佐藩の砲台も設けられた所ながです。

坂本龍馬も、須崎湾に艦船で二度入港しちょります。

一度目は、土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市)2010.10.24 でも触れた、イカルス号事件の時。

この時、湾内にゃ5隻の艦船が居ったき、土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市)2010.10.24 に書いた、「真覚寺日記」にゃ舳艫相銜・・・と書かれちゅうと。

土佐藩軍艦・夕顔丸と空蝉丸。

薩摩藩船・三邦丸。

幕府軍艦・回天丸。

それに、英艦・バジリスク号が・・・。

8月2日、須崎に着くと龍馬は、薩摩藩船・三邦丸から、土佐藩・夕顔丸に乗り換え、船内に潜伏しちょった。

と言うのも、この頃は、まだ脱藩の身じゃったき・・・。

けんど、夜陰密かに上陸したようじゃねー。

もしかしたら、オンチャンくの家の前を通ったかも知れんと考えたら、ワクワクするぜよ!・・・!(^^)!


坂本龍馬関係文書・第二

慶応三丁卯八月八日夜龍馬竊ニ上陸シ、同志川原塚茂太郎ヲ訪レ、時勢ヲ談ジ且ツ高知ノ実兄権平ニ、一書ヲ寄セ事情ヲ報ズ・・・


因みに、川原塚茂太郎は龍馬の兄・権平さんの妻・千野さんの弟になるが。

そんで、この時、川原塚茂太郎に託した兄・権平さんへの手紙にゃ、時計を添えて届けてもろうたようです。

この権平さん宛ての手紙は、慶応3年8月8日に、夕顔丸船中で書かれちょりますが、土佐を眼の前にして、ジッとして居れんかったがやろー。

コッソリ抜け出して、川原塚茂太郎を訪ねて行ったようながですき。

兄・権平さんからは、無名のニ尺八寸の刀一振りが送り届けられ、8月12日夕顔丸で須崎を出港し、長崎へ向かうがです。

因みに、この時、土佐藩の須崎砲台を守っちょったがは、乾退助(板垣退助)じゃったとか・・・。

8月7・8日の2日間、事件の談判を、土佐藩・夕顔丸船上で、土佐藩と英国側は外交官・バークスと通訳のアーネスト・サトーを交え審議したけんど、この時にゃ談判は不調に終わっり、8月9日英艦・バジリスク号は須崎を去るがです。

このイカルス号事件を介して、須崎が歴史の表舞台に登場したがです。

二度目は、龍馬最後の帰国の際、無事に役目を終え京に向け出航したけんど、途中悪天候で須崎港に避難しちょります。

慶応3年(1867)10月9日の兄・権平さんに宛てた手紙から

其後芸州の船より 小蝶丸ニ乗かへ須崎を発し 十月九日ニ大阪ニ参り申候・・・・・。

懐かしい実家で2日過ごした後、10月1日震天丸で浦戸を出航したけんど、途中、風浪で破損し、須崎の港に戻り、此処で岡内俊太郎に交渉させて土佐藩船・空蝉丸(原名・胡蝶丸)に乗換え、10月5日に出航しちょります。

岡内俊太郎は土佐藩の横目役として務めちょった人で、のちに坂本龍馬に従い海援隊に入り、長岡謙吉と共に秘書として活躍したがです。

龍馬最後の帰国となったライフル1000丁を土佐へ持ち込んだ際、龍馬に同行して土佐に帰国しちょりましたき。

長浜海岸 - 龍馬は沖合いから長浜海岸を観ちゅう 2010.09.07

袂石 - 龍馬、最後の帰国時に震天丸を停泊させた辺り 2010.10.04

[ 参考 ]

・「高知市歴史散歩」土佐史研究家・広谷喜十郎/著
・「龍馬の手紙」 宮地佐一郎/著
・「坂本竜馬関係文書 二」日本史籍協会 編




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