土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市)






↓ 線路(JR土讃線)を挟んで、海側から見た写真。



[ 高知県須崎市中町 ]


土佐藩が築いた砲台跡で、須崎の他にも浦戸や前浜にも砲台跡はあるけんど、ここ須崎砲台が現存する砲台跡じゃ規模も大きゆうて、当時の姿を残しちょります。

浦戸砲台場跡 - サン・フェリぺ号漂着事件に繋がる 2009.12.07

前浜砲台跡 2010.10.01

文久3年(1863)に、異国船からの海岸防備を目的に作られた砲台で、須崎の海岸にゃ東砲台・中砲台・西砲台の3ヶ所築かれたがです。

明治維新後、此処、西砲台跡だけが辛うじて残ったようながで、昭和19年に国の史跡に指定されちょります。

現在のJR土讃線の線路上が、昔の海岸の堤防跡で、その内側に砲台が造られちょったと思われるがです。

慶応3年(1867)7月6日、長崎で英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊にかかったイカルス号事件で、須崎湾に英艦が押し寄せた。

この時の様子が、宇佐(現・土佐市宇佐)の真覚寺八代住職・井上静照が、安政元年(1854)から明治元年(1868)まで綴った有名な「真覚寺日記」にゃ、次のように書かれちゅう。

舳艫相銜で港の内外に投錨し、煤煙天に冲し今にも手切となれば、砲声一発血の海を湧かそうと人心競々として安き心もなく・・・、眼のあたり外艦の来航を見て、外国との開戦を危ぶみ、荷物を片付け避難し、警戒のため毎夜市中に松明を焚き、須崎浜白々昼の如く、雨中開戦のため蓑の用意、英人の首級を包む油紙大小数枚・・・。

舳艫相銜とは、湾内に多くの艦船が停泊しちょったき、他船どうし船の艫と舳先とが触れ合わんばかりの状態じゃった、と言う意味なが。

陸じゃ、砲台を守る土佐藩兵士や、須崎の庶民たちが、何時戦になるかも判らんような状況の下、右往左往し驚きと慌てぶりは並大抵のものじゃなかったと思うがです。

うちの御先祖様も、慌てふためいた一人じゃったろー・・・(^^ゞ

この時、須崎湾に停泊しちょった薩摩藩船・三邦丸の船上にゃ坂本龍馬も居ったき。

佐々木高行生誕地碑 - 龍馬と親交が深かった 2010.07.15

逆に、船上から陸の上の、狼狽振りを眺めよった事じゃろーて・・・。

此処は、オンチャンの子供の頃の遊び場の一つで、ただ、台場と言うのが通り名じゃった。

その場所が、歴史的な場所じゃったと知ったがは、ずっとずっと後の話ながやか・・・(^^ゞ。

参考:幕末の沿岸防備!土佐藩砲台跡/高知県須崎市の西浜歴史公園




[ アクセス ]

■ JR土讃線「須崎駅」下車。徒歩約1.3km。

JR「須崎駅」発着時刻表

MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment