掛川神社 - 徳川家康を祭り、「三ツ葉葵」の使用が認められた神社










[ 高知県高知市薊野中町 ]


抜粋:「高知市歴史散歩」風水と高知城 - 土佐史研究家・広谷喜十郎/著にゃ、高知城の鬼門鎮護のために建てられたとある。

寛永17年(1640)、藩主山内家は高知城の鬼門鎮護のため、旧領の遠州掛川から牛頭天王宮を勧請し、薊野に神殿を造営して掛川神社を設けた。

牛頭天王は「方位神」の属性があるので、鬼門鎮めの神としてまつられているのである。

掛川神社は、延宝8年(1680)に徳川家康の位牌殿を設けており、徳川家の家紋である「三ツ葉葵」の使用が特に認められている。

また、山内家から刀工・国時、康光作の太刀(いずれも国の重要文化財)が奉納されていることなどから、重要な神社であったことが理解できる。

また、抜粋:「高知市歴史散歩」日光東照宮と板垣退助 - 土佐史研究家・広谷喜十郎/著にゃ、戊辰戦争の際、板垣退助率いる官軍が日光東照宮を守った経緯が書かれちゅう。

明治元年(1868)の戊辰戦役の時、板垣退助の率いる土佐軍と大鳥圭介の率いる徳川幕府側の最強の軍との間で、日光山麓に位置する今市で戦闘が行われた。

昭和52年(1977)になって、栃木県今市市在住の田辺昇吉氏から、この戦いで戦死した九人の土佐藩兵の子孫を探してほしいとの依頼を受けた。

田辺氏が『日光山麓の戦』という著書を刊行したので・・・・。

今市の戦いの後、土佐軍は東照宮の山内にいる幕府軍を攻撃すべく、兵を進めた。

だが、板垣は東照宮を戦火から守ることを第一に考え、谷干城らを派遣して交渉を行い、幕府軍を退却させることに成功している。

田辺氏は「東照宮は危機一髪の状態であったが、土佐軍の活躍によって焼失せずに残されたのではないか。長州や薩摩であれば関ヶ原戦役の恨みつらみがあるので、無理矢理に攻撃していたにちがいない」と話しておられた。

それに対して土佐軍は、土佐藩始祖の山内一豊が、東照宮に祭られている徳川家康から、掛川六万石から土佐一国の大名に出世させてもらったから、その配慮もあったのかも知れない。

そうした歴史が影響しているのか、あるツアーが交通渋滞のため予定が大幅に遅れてしまい、東照宮への到着が閉門間際になってしまった時に、高知県からの旅行団と告げると、特別な計らいで至れり尽くせりの待遇を受けたと聞いたことがある。・・・・・

・・・・・今の東照宮があるのは板垣や土佐人のおかげであるとして、東照宮の神橋に近い金谷ホテルの入り口に板垣の銅像が昭和4年に建立された。・・・・

とも書かれちょります。


土佐に入国した山内一豊が、徳川から恩を受けたと言う事が、後々の代々の藩主にも、また上士らーにも根深い恩義として精神面に於いても受け継がれていたがですかねー。

けんど幕末期に山内容堂がした事は、攘夷運動が渦巻くと佐幕派・尊王派両派にいい格好をしようとした挙句、風見鶏のような性格が不幸にも土佐勤王党を弾圧し、時代が倒幕に傾くと戊辰戦争では皮肉にも倒幕側に立って戦こうた。

恩義恩義と言いながら、最後にゃ恩義と言う二文字は消え去って行ったがです。

そんな中でも、土佐藩士としての板垣退助は、最後まで筋道を通して、主家に変わり恩義ある徳川家康を祭る日光東照宮だけはと・・・、守り抜いたがじゃろーと思うがです。

そう言う意味も含めて、個人的にゃ山内容堂の事は大嫌いで、日和見で優柔不断な人物と思うちゅうがですよ。

飽く迄も、個人的な主観ですきに・・・(^^ゞ

當神社は、大國主神、素盞男命、稲田姫命を奉斎し、相殿に東照神社(祭神・徳川家康公)瀧宮神社(祭神・未詳社伝云、事代主神、武内宿禰命)海津見神社(祭神・海津見神)を合祭してある。
思ふに當神社鎮座の立石山(一名陽貴山)は浦戸湾の最奥部に面し附近平地の中に孤立した霊地で古来神霊鎮祭の地と推定せられる。
二代土佐藩主山内忠義公はその産土神である遠州掛川鎮座の牛頭天王宮を崇敬し土佐入国以来意の如く参詣の出来ないのを憂ひ寛永十八年六月十六日神道管領長上ト部兼里の供奉に依り掛川より此の地に奉還鎮祭した。・・・・・
由緒書より




[ アクセス ]

■ JR土讃線「薊野」駅下車、徒歩約250m

JR「薊野」駅発着時刻表

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