僧・智隆墓(法印 祐如) - ある時は土佐勤王党・観音寺智隆





[ 高知県須崎市鍛冶町・ 浄土宗発生寺 ]


土佐勤王党の中でも、異色の一人が、須崎市にある発生寺住職じゃった智隆和尚じゃろー。

文化13年(1816)、長岡郡種崎浦(現・高知市種崎)の土佐藩大船頭・堀内新助の次男として生まれ、名は勇次と言うがです。

文政10年(1827)、小高坂村(現・高知市)にあった浄福寺(廃仏殿釈で廃寺か?)に入り、法名・智隆を名乗る。

その後、半山郷(現・高岡郡葉山付近)の繁国寺(廃仏殿釈で廃寺か?)に移り、この半山郷で土地の片岡虎五郎から無外流の剣術、片岡小左衛門からは儒学を学んじゅうがです。

そいて、何時頃かは判らんけんど、神田村(現・高知市神田)の福生寺(廃仏殿釈で廃寺か?)を経て、嘉永3年(1850)に、ここ須崎(現・須崎市)の発生寺の住職になっちゅうがです。

法話清談をもって多くの人を教化し、特に、間引きの悪習を改めさせる事に、努力したようながです。

時代は、そんなお寺の住職をも、激動のうねりの中に、巻き込んで行ったがですねー。

文久元年(1861)、武市半平太を首領とする土佐勤王党を結成する。

勤王の志が篤く、翌年文久2年(1862)に、104番目の党員として加盟し、観音寺智隆として、国事に奔走するがです。

長州の久坂玄瑞や岡山の藤本鉄石ら諸藩の志士らと交流や、寺にあっては、高岡郡近郊の同志らの密会の場でもあったそうながです。

何時かは定かじゃないけんど、坂本龍馬も、訪れたと言われちょります。

けんど、文久3年8月18日(1863)の八月十八日の政変(禁門の変)で攘夷派が失脚すると、土佐も土佐勤王党への弾圧が始まり、土佐での活動が難しくなり土佐を脱藩しちょります。

同年11月、豊後大分に渡り、正徳寺庵室に隠れ、僧名を祐如と改め、近隣の子弟達の教育に生涯を終えたそうながです。

慶応元年(1865)9月25日、50歳で亡くなっちょります。

この墓は分骨墓で、本墓は大分県由布市庄内町の正徳寺。

土佐の墓 山本泰三著
大善山 発生寺 災害に流された歴史 -坂本竜馬ゆかりの寺-




[ アクセス ]

■ JR土讃線「須崎駅」下車。徒歩約500m。

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