坂本龍馬寓居之地・海援隊本部 - 酢屋




[ 京都府京都市中京区大黒町 ]


坂本龍馬が、土佐藩船・夕顔丸で船中八朔を起草したのが、慶応3年6月9日に、長崎を出航して大阪に向かった時じゃった。

そんで、京に入って宿としたがが、ここ酢屋ながです。

それと、僅かな期間ではあるが、海援隊の京都に置ける本部にもなっちょりました。

屋号が酢屋ちゅき、お酢を扱いよったかと思うたら、材木屋さんながでした。

現在も、材木商として、営業をしゆうようで京都・酢屋 創作木工芸の店と言うサイトがありましたき、抜粋してご紹介しちょきます。


酢屋嘉兵衛は享保6年より現在まで、創業280年つづく材木商でございます。

「酢屋」は材木業を営んだ店の屋号で、初代酢屋嘉兵衛より現代までこの地にて継承しております。・・・・・

高瀬川の川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、各藩との折衝や伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬は「酢屋」に身を寄せたのです。

嘉兵衛は龍馬の活動に大変理解を示し、その活動の援助に力を注いでおりました。

龍馬は家の者から「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋に住まいしていました。

(現在ギャラリー龍馬として使用しています)当時の面影を残す二階の品格子より龍馬は向いの舟入にむけてピストルの試し撃ちをしたということです。

遭難の年(慶応3年)の6月24日には、お姉さまに宛てた手紙の中で酢屋に投宿している旨を伝えております。


又、この家に海援隊京都本部を置き、隊士、陸奥宗光、長岡謙吉、等数多くの志士が投宿していました。

11月15日龍馬遭難直後の天満屋事件もこの二階の一室に隊士が集まり事件が起りました。

維新後、陸奥宗光は「酢屋」の家を訪れる時、当時を思い、感慨にむせんだと言われています。

材木商 十代目 酢屋嘉兵衛


遭難の年(慶応3年)の6月24日には、お姉さまに宛てた手紙の中で酢屋に投宿している旨を伝えております。

とある手紙は、約5mもある長文の手紙で、冒頭に下記のように書かれちゅう。

当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候
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