category: 土佐に生きた人々 |  1/4

細川半蔵頼直 - 「からくり半蔵」の名で知られる細川半蔵邸跡付近

[ 高知県南国市上末松 ]今回は、からくり半蔵として知られちょります、細川半蔵頼直の御紹介です。人物の御紹介の前に、初めに「からくり人形」って、知っちょりますか?現在風に云うたらロボットじゃねー。室町時代末期に日本に入って来た西洋時計を工夫したものじゃけんど、当時は金属ではなく人形も歯車も全て木製じゃし、それに電子部品も無い時代じゃき、駆動装置はクジラの髭の弾性を利用したぜんまい仕掛けで動く人形をか...

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辰巳屋伊藤傳右衛門邸跡付近 - 伊能忠敬が高知城下で三日間宿泊

[ 高知県高知市はりまや橋1丁目 ]はじめに暫く治まっていました、長期介護による精神的ウツにドット襲われ、体調不良でブログの更新が滞っていましたが、気分的にも治まってきましたので、状況をみつつ更新を再開いたします。2ヶ月程前の事になりますが、伊能忠敬研究会の方から「伊藤家は伊能忠敬一行の宿所ではありませんか?」と言うコメントをいただきました。伊藤家が辰巳屋の屋号を使用していたのは記憶に在りましたが、コ...

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竹本小弥儀 - 河田小龍が美声で名を広めた小弥儀太夫の略伝を書く

[ 高知県高知市・皿ヶ峰南丘西下 ]高知市の筆山から、南嶺(筆山-皿ケ峰-鷲尾山) への登山道が続いちょりますが、皿ケ峰(高見山)を過ぎると、西側はススキなどの草が茂る平坦な場所に出ます。 目的の場所は、登山道から外れて、西側の草むらの中に入って行くがです。 途中からは、何処が道やら判らんような藪の中を、箭竹や棘のある植物に衣類を引っかけたり、手に傷を作ったりしながら進むと、藪の中に二基の赤茶けた墓石が並ん...

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孕石元政 - 土佐藩家老・野中兼山を生駒木工と画策し失脚させる

[ 高知県高知市筆山  ]孕石元政(はらみいし もとまさ)は、寛永5年(1628) 土佐藩・孕石正元の子として生まれ、別名・頼母、小右衛門とも称す。承応3年(1654)家督を相続し、明暦2年(1656年)近習家老となる。その後、生駒木工とともに野中兼山の失脚を画策し、寛文3年(1663年)7月に深尾出羽を通じて藩主・山内忠豊に上申書を提出し、兼山失脚の後、藩政改革を断行し家老となっちょります。元禄14年(1701)歿す。野中兼山...

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慈仙院 - 野中兼山の娘・婉さんが曽祖母のために建てた墓

[ 高知県高知市筆山町 ]潮江神社の方から、黒門と呼ばれる筆山への上りの石段を20~30m程上った右側に「慈仙院」の墓はあるがです。 上の説明板は野中兼山の墓所に設置されちゅうがですが、その野中氏の系図にあるように、慈仙院(法号)は土佐藩初代藩主・山内一豊の妹・合姫と言い、野中兼山の祖母になるがです。野中兼山 - 野中兼山一族の墓所 2015-10-13|山内一豊墓 2011-02-02最初は、野中兼山の祖父・良平に嫁ぎ、兼山の...

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若宮八幡宮 - 冤罪で処刑された義民・高橋安之丞を祀る

[ 高知県高知市佐々木町 ]土讃線を挟んで旭小学校の北側に長尾山と言う東西に細長い然程標高の無い山があるがですが、その南面に「若宮八幡宮」と言う神社の社標と狛犬が鎮座しちょります。参道は長尾山の尾根を北に降り、旭が丘ニュータウンへの上り口を左折し、塚の原東公園を北に上った所まで続いちょります。最初の社標と狛犬のある場所から鳥居までの距離が、平面上で約350mもあるがです。 此処が、義民として知られちゅう...

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岡村十兵衛墓と頌徳碑 - 鑑雄神社

 [ 高知県室戸市羽根町・鑑雄神社  ]以前、御紹介しちょります室戸市羽根町の鑑雄神社の続きを、出し惜しみで再度補足を・・・・・鑑雄神社 - 羽根浦の浦人達が恩人・岡村十兵衛を神として祀る 2015-10-28岡村十兵衛が亡くなって浦人達が建てたのが写真のお墓ながです。干時 貞享元年  俗名 岡村十兵衛  行年五十七歳釋 林月宗挩信士  子七月十九日施主 檜垣金右衛(他6名) 久保与三○○明治8年(1875)になって、時の...

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古谷竹原先生邸跡 - 須崎の文人で鹿持雅澄や間崎哲馬とも親交を持つ

[ 高知県須崎市西古市町 ]以前御紹介した、須崎市にある「寳永津浪溺死之塚」の碑文を書いた儒医で画家じゃった古谷竹原の邸跡を示す石碑が、須崎八幡宮の東側の道を北に約150m行った、西古市町の鮮魚店の南の門に建っちょります。寳永津浪溺死之塚 - 碑文は古屋竹原、願主は発生寺住職・智隆和尚 2015-07-28僧・智隆墓(法印 祐如) - ある時は土佐勤王党・観音寺智隆 2010-10-15古谷竹原(ふるや ちくげん)は号で天明8年(...

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野中兼山 - 野中兼山一族の墓所

[ 高知県高知市塩屋崎・筆山南面  ] 筆山の南面、筆山トンネルの高見側出口上は兼山公園となっちょり、傍に建設省高知土木事務所の建てた「高知県の土木事業の祖 野中兼山」と言う石碑が建っちょりますが、そこから真っ直ぐに延びる石段の先に野中兼山一族の墓所があるがです。なお、兼山の正妻市や長男清七、次男欽六、五男希四郎、三女寛、五女将、六男貞四郎などの墓は、幽閉されちょった現・宿毛市桜町の東福院墓地内にある...

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馬詰親音 - 土佐藩中期の名奉行で歌人

[ 高知県高知市秦泉寺・中天場山 ]馬詰親音は、寛延元年(1748)生まれの土佐藩士で、土佐藩第9代藩主・山内豊雍と・第10代藩主・豊策に起用され、教授方頭取や町奉行などを務めた人ながです。史跡 桜井跡 - 馬詰親音により掘られ清水湧く 2011-07-14馬詰親音誕生地 - 名奉行であって土佐に製糖業を興す 2011-07-08[ 注意! ]■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ...

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藤戸億羅 - 俳人で武市瑞山の妻・富さんの晩年の診察にあたった医師

[ 高知県安芸郡芸西村西分郷 ]以前に御紹介しちょります芸西村にある坂本龍馬と海援隊で活躍した、安岡金馬の先祖の墓所の近くに、藤戸億羅の墓と句碑があるがです。安岡金馬の父九代目・安岡忠郷の墓 - 庄屋職を務めよった 2013-10-23 藤戸億羅句碑安岡家墓所の西側、藤戸家の墓所と共に藤戸億羅(本名・譲治)の句碑がある。この村乃 麦四五寸や ゴリの味億羅は本業である医者のかたわら俳句をよくたしなんだ。正岡子規や河...

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永野玄亮 - 坂本龍馬の懐刀、海援隊士・長岡謙吉の祖父

[ 高知県南国市比江 ]【 墓碑 】姓源氏、五世の祖・神左衛門は中村の一條公に仕えたが、その子税助は禄を辞して興津に住した。税助の孫の五左衛門は高知城下に出た。玄亮は五左衛門の子で高知に生れ、医を学び怠らず励み永野元春の家をついだ。京師に数度遊学し業を終えて帰り医業に務め、誤診することがなく冠者が多く来診に集った。また余暇に詩を賦した。長子玄貢が父の跡をつぎ、二子玄泉は今井秀誠の養子となり、のち孝純...

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浅川範彦 - 中江兆民の従兄弟にして明治時代の細菌学者で医学博士

[ 高知県高知市北泰泉寺 ]墓碑にゃ、「医学博士 従五位 浅川範彦墓」と刻まれちょります。左後ろは、お母さんの墓石です。浅川範彦は慶応元年(1865)土佐郡秦村(現・高知市)の土佐藩士・浅川範應の二男として生まれちょります。幼少より医学が好きじゃったようで県立医学校で医学を学び、卒業後上京して済生学舎に入り、明治22年(1889)医師免許を取って帰郷し、明治26年(1890)に高知病院に招かれて副院長になっちょります。...

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岡村十兵衛 - 独断で藩米蔵を開き飢饉から村人を救い責めを負い自刃

[ 高知県高知市布師田 ]昼なお暗き周囲を鬱蒼とした竹林に覆われた一角に、岡村十兵衛の墓がある。この布師田地区じゃ、土佐の藩政時代に二人の義人を輩出しちょります。その人物とは、一木権兵衛さんと、この岡村十兵衛さんながです。一木権兵衛 - 難工事・室津港開鑿を成し人柱として海神に身を捧げる 2014-09-01岡村十兵衛さんは寛永5年(1628)、一木権兵衛さんは元和3年(1617)と、11歳違いですけんど、多分お互いに顔見...

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野村長平 - 無人島「鳥島」まで漂流した無人島長平の墓

[ 高知県香南市香我美町 ]以前には、「無人島長平像」の方を御紹介しちょりますが、今回はお墓の方です。無人島長平の像 2008-03-26 場所は、「無人島長平像」の左側にある岸本青年団の皆さんが建てた記念碑の脇に、一基ぽつんと建っちょります。 野村長平さんが、漂流したがは天明5年(1785)1月の事ながです。赤岡村(現・香南市赤岡町)から、直線距離で約30Km東の田野(現・田野町)へ3百石船で御蔵米を運んだ帰路に大シケに...

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下元西州塾跡 - 武市瑞山の叔父・鹿持雅澄も門人の一人じゃったと

[ 高知県須崎市西古市町 ]下元西洲 (しももと せいしゅう)は明和2年(1765)に高岡郡下分村(現・須崎市)の郷士の家に生まれ、名を真清(ますが)、通称・良助と言い、叔父・下元起敬の養子になっちょります。高畠東陵に書を学び、国学者・谷真澄に弟子入りし和漢・詩歌に通ずる。高畠東陵寛延元年生まれの土佐藩士で、江戸で細井広沢の門人・平林淳信(あつのぶ)に書を学んだ、江戸時代中期-後期の書家。因みに東陵の祖は小倉三...

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生駒木工 - 土佐藩家老・野中兼山を失脚させる切欠をつくった一人

[ 高知県高知市中高見 ]生駒氏二代目・生駒木工政重は、土佐藩第二代藩主・山内忠義の信任の厚かった人で、忠義隠居後も近習家老として仕え、忠義の死後、剃髪して半斎を号した。【 参考・引用 】  『土佐の墓』  山本泰三・著この人が、土佐藩家老・野中兼山の行った政治に不満を持ち、兼山を失脚させた政敵の一人ながです。その本人も、寛文6年(1666)野中兼山の死後、僅か3ヶ年程で死去しちょります。70歳。[ 注意! ]■...

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一木権兵衛 - 難工事・室津港開鑿を成し人柱として海神に身を捧げる

[ 高知県高知市布師田 ]四国八十八ヶ所第25番札所・津照寺参道入り口の南側に、室津港(現・室戸市の港)があるがですが、難工事じゃった室津港の改修工事を担当したがが、一木権兵衛さんながです。この港は、室戸ジオパークとも係わりがあるけんど、南海トラフの大地震の度毎に隆起が起こり港の水深が浅くなり、寛文年間の頃にゃ、港の入口を大きな暗礁が覆い船の出入りが困難となっちょったそうながです。室戸ジオパーク - 室...

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奥宮正樹 - 土佐での伊能忠敬の測量に随行

[ 高知県高知市布師田 ]奥宮正樹の長男は幕末期に志士たちにも影響を与えた陽明学者・漢学者じゃった奥宮慥斎。奥宮慥斎 - 門人たちに尊王の大義を鼓吹する 2012-02-29二男は、題額が勝海舟の書体で碑文に坂本龍馬の名前も刻まれちゅう廣井磐之助の墓の碑文や、その他多くの墓碑・記念碑に名を残しちゅう奥宮正路ながです。奥宮正樹は、寛永6年(1853)に75歳でみてちょります。奥宮 禮(暁峰・正路) - 多くの墓碑や記念碑の撰文...

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金子直吉 - 私利私欲に走らず清貧を貫いた財界のナポレオン

[ 高知県高知市筆山 ]たまたまTVを点けたら読売テレビ開局55年記念ドラマ『お家さん』をやっちょりますねー。神戸の砂糖問屋「鈴木商店」を日本一の商社に成長させた女主人・鈴木よねと大番頭・金子直吉の激動の人生を描いたドラマじゃけんど、その主人公の一人「金子直吉」さんは、土佐の地に眠っちょります。ドラマを見た人もおりますろーき、簡潔に記しちょきます。金子直吉、慶応2年(1866)土佐藩領内で商家の子としてに生まれ...

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今井貞吉 - 堺事件の際、土佐藩監察吏となり折衝役を務める

[ 高知県高知市筆山町・筆山 ]今井貞吉は天保2年(1831)に土佐郡潮江村塩屋崎(現・高知市)の下士・今井米次の子として生まれちょります。町方下横目を務めちょった時の安政6年(1859)に藩命で長崎に赴き物産貿易の取調べをし、次いで薩摩にも入りガラス製造、木綿織器械などを見学し帰国し吉田東洋に復命するが、再度長崎行きを命ぜられちょります。しかし帰国後、長崎で買い求めた蘭書が災いして免責となり、暇を願い泉州堺に出...

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今井孝純 - 坂本龍馬の盟友である海援隊士・長岡謙吉の父

[ 高知県高知市北高見 ]今井孝純は、坂本龍馬の海援隊に参加して事務方を任され、慶応3年(1867)龍馬と後藤象二郎が京都へ上洛する土佐藩の帆船「夕顔丸」に乗船した際、坂本龍馬の大政奉還後の構想『船中八策』を書きまとめた長岡謙吉のお父ちゃんながです。写真は歴史写真家・前田秀徳氏に連れて行ってもろうた時に撮影したがですが、左から母・今井 直さん、真ん中が父・今井孝純、右が祖父・今井秀誠の墓ながです。この写真に...

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武藤致和 - 土佐史の金字塔の一つ『南路史』を編纂

[ 高知県高知市中高見 ]武藤致和(むとう むねかず)に付いては、以前「屋敷跡」碑で御紹介しちょりますが、土佐の地誌『南路志』120巻をまとめた人ながです。土佐の歴史や地理・民俗や宗教等、さまざまな資料が詰め込まれた土佐史の金字塔の一つながです。そのため家産が傾くまで財をつぎ込んで完成させちょります。原本は昭和20年(1945)の高知大空襲で焼失しちょりますが、写本が残っちょるおかげで土佐の歴史をひもとく貴重な...

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安岡金馬の父九代目・安岡忠郷の墓 - 庄屋職を務めよった

[ 高知県安芸郡芸西村西分郷 ]坂本龍馬と共に海援隊士として活躍した、安岡金馬の父九代目・安岡忠郷の墓です。八本矢車紋の家紋が彫られちょります。安岡忠郷は安芸郡井ノ口村(現・安芸市)の庄屋職を務めよったけんど、三男・哲馬が野根山武装決起した事や、二男になる安岡金馬が土佐を脱藩した事で、「子弟の導きよろしからず」として、庄屋職を罷免されちょります。写真は、かなりボケちょり見辛いと思いますが、鬱蒼とした...

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井上好春 - 坂本直澄の妻・久さんの父で龍馬のひじいちゃん

[ 高知県高知市西久万 ]坂本龍馬の祖母・久ばあちゃんのお父さんが、井上好春さんながです。ですき龍馬からしたら、お婆ちゃん方のひいじいちゃん(曾祖父)になるがです。井上好春御夫妻にゃ三人の娘がおった。長女・久は坂本家へ、次女・千代は高松家、そして三女(不明)は鎌田家に嫁ぎ、不思議な事に龍馬たち兄弟の代から、それぞれの家系の子孫たちが再び結び付くがです。井上好春は宝暦6年(1756)土佐郡久万村(現・高知市...

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谷重喜 - 谷干城は遠縁の親族

[ 高知県高知市・秦泉寺山 ]谷重喜は天保14年(1843)、長曾我部氏の旧臣で、土佐藩の上士の家柄でもある谷神右衛門家第11代目・谷神佐衛門重昌の嫡男に生まれ、通称・神兵衛、本名・平三、後の名を重喜と言う。沈着重厚の人で、戊辰の役では土佐藩迅衝隊の四番小隊長として東征し、甲府、今市、会津と転戦し数々の功をあげちょります。この時、板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍した谷干城は谷神右衛門...

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藤田琴 - 坂本龍馬の竹馬の友・藤田栄馬の妹

[ 高知県高知市小高坂 ]坂本龍馬の竹馬の友である藤田栄馬の妹・琴さんの墓です。琴さんには妹・好(安田たまき)がいて、この二人は高知城下じゃ評判の美人姉妹じゃったそうです。しかし、墓石にも刻まれちゅうように琴さんは17歳の若さで自害しちょります。原因は、高知のとある豪商から執拗な縁談があったがじゃそうですが、17歳の娘に「口惜しい」とまで言わしめて「自害」を選んだと言うがですから、並々ならぬ訳があったが...

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澤田正二郎 - 先祖は土佐人、新国劇の俳優で坂本龍馬も演じる

[ 高知県高知市秦泉寺 ]澤田正二郞は明治25年(1892)5月27日に滋賀県大津市の三井寺の近くに生まれ、芸術座を経て大正6年(1917)新国劇を創立し、「月形半平太」・「国定忠治」などの剣劇もので大衆劇に新境地を開き、昭和3年(1928)には「坂本龍馬」も演じ「沢正」の名で親しまれた新国劇の俳優ながです。本人は高知県出身じゃないがですが、彼のルーツは土佐です。澤田正二郞の父は秦泉寺出身の土佐の人で、西南戦争では谷干城と...

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吉田数馬 - 現・小津高校の初代校長を務め坂本龍馬を敬慕した一人

[ 高知県高知市筆山 ]この「よしだか寿万」と彫られちょる一風変わった墓石は、坂本龍馬を敬慕した明治15年(1882)現・小津高校の初代校長を務め、質実剛健の校風を樹立した「吉田数馬」の墓所ながです。弘化4年(1847)に生まれちょりますが、父は三里池の人で早くに没する。土佐藩校「到道館」で学び、戊辰戦争東征に従い新留守居役になった。明治4年御親兵に編入され上京し陸軍中尉となるが、征韓論政変で下野し土佐に戻っちょり...

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中岡兼 - 中岡慎太郎の妻

[ 高知県高知市薊野 ]「丸に綿の花」の家紋に、「中岡家先祖代々之墓」と刻まれちょりますが、これが慶応3年11月15日(1867)京都河原町近江屋井口新助邸において坂本龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎先祖の墓所ながです。裏面にゃ、下記のように刻まれちょります。明治時代より中岡家の墓所は潮江筆山南側にあり先祖上倉郷庄屋要七夫妻の墓も昭和の初め上倉よりここに改葬してあった昨昭和47年9月15日県下各地をおそった豪雨の為突...

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高芝玄馬重春 - 岩崎弥太郎の妻・喜勢の父

[ 高知県高知市御畳瀬 ]NHK大河『龍馬伝』では、女優のマイコが演じちょった、岩崎弥太郎の妻・喜勢の父・高芝玄馬重春の墓です。喜勢は弘化2年(1845)、土佐国長岡郡三和村浜改田(現・高知県南国市)の郷士・高芝重春(玄馬)と徳夫妻の次女として生まれちょりますが、父は生まれて1年後の弘化三年(1846)に33歳で亡くなっちょります。その後、母・徳は安芸の岩崎弥太郎の家の近所に再婚して行ったがでして、残された喜勢は土佐...

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大黒宗哲勝正 - 先祖は長宗我部家臣・杓田城主

[ 高知県高知市・筆山 ]先祖は、長宗我部氏から出た杓田城主・大黒太郎左衛門範宗。大黒宗哲勝正(初代)の父・大黒主計頭は千石を領したが、天正14年(1586)の豊後(大分)戸次川の戦で、長宗我部信親と共に討ち死。大黒宗哲勝正は通称・茂左衛門、隠居後に宗哲を名乗る。元和9年(1623)に山内氏に召抱えられ、御納戸役等を勤め、寛文3年(1663)馬廻百五十石になった。延宝5年(1677) 82歳で没。【参考・引用】 『土佐の墓』 山本...

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奥宮 禮(暁峰・正路) - 多くの墓碑や記念碑の撰文に名を残す

[ 高知県高知市高見町・高見山 ]奥宮正路(おくのみや まさじ)は文政2年(1819)に土佐郡潮江土居(現・高知市)の奥宮辨三郎の次男に生まれ、名を正路、別名・禮、号は暁峰(ぎょうほう)と言う。兄は儒学者・陽明学者・神道学者・禅学者で勤王家でもあった奥宮慥斎(おくのみや ぞうさい)ながです。幼年より書を学び、16歳ですでに長浜村で習字を教えていたいたそうながです。家老・深尾氏に仕え江戸に出、山口管山に入門し書を...

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浅井藤右衛門 - 墓碑撰文は坂本龍馬に西洋事情を説いた河田小龍

[ 高知県高知市・西真宗寺山 ]初代は近江の人で、土佐に来て佐野屋を起こし紙類・醤油等を商い、二代目の時に船で大阪との取引を行って財を成し、一代毎に藤右衛門と藤十郎を襲名したそうです。土佐じゃ「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷屋道具持ち、下の才谷屋娘持ち」と古い俗謡 にも詠われちゅう「浅井」は、この墓の主四代目・政利の代の頃のことのようです。安政の大地震の折には、自宅が全焼する中、「こんな時に窮民(...

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小松孫四郎 - 撰文は坂本龍馬の盟友で海援隊士・石田英吉

[ 高知県高知市薊野・真宗寺山 ]高知市の真宗寺山にある小松孫四郎の墓碑にゃ「高知県知事 石田英吉撰」と刻まれちょります。石田英吉とは、言わずと知れた坂本龍馬の盟友で、海援隊士でもあった石田英吉の事ながです。坂本龍馬と亀山社中や海援隊の結成に参加し、下関海戦ではユニオン号の指揮を任せられ活躍し、長岡謙吉とともに「二吉」と賞された逸材じゃった人ながです。 その墓の主・小松孫四郎とは如何言う人物かと言う...

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武市甚七 - 土佐の左甚五郎と称され高知城の「波の欄間」を彫る

[ 高知県高知市塩屋崎 ]高知城の本丸御殿の中に写真のような欄間がある。『高知城修理報告書』にゃ「波形刳貫き欄間」とあるけんど、「打ち分けの波の欄間」、通称「波の欄間」と呼ばれちゅうがでして、土佐の黒潮の波を模っちゅうがじゃそうです。作者は土佐の左甚五郎とも言われちゅう「武市甚七」さんながです。武市甚七は明和9年-安永元年(1722)に生まれちょります。竹篭細工を業としたが、彫刻が巧みで土佐の左甚五郎と言わ...

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小田原平兵衛 - 夢のお告げで建てられた墓石で、文字は谷秦三

[ 高知県高知市塩屋崎・筆山 ]小田原平兵衛に関する人物像は判らんけんど、『土佐の墓』に掲載されちょりますき、ご紹介をしちょきます。人間誰しも夢を見るけんど、一口に夢と言うても不吉な嫌な夢もあろうし、良いことの兆しを感じる夢もある。ましてや、見た夢がそのまま現実になれば「正夢」となる。信じるか否かは別にして、そんな不思議な夢により建てられたのが、小田原平兵衛のお墓じゃそうです。元禄元年(1688)この墓の...

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桂井素菴 - 文化・文政期以前は才谷屋と並ぶ金持ちで儒学者

[ 高知県高知市薊野・真宗寺山 ]・・・当時高知城下の分限者は中央にて仁尾久太夫と櫃屋道清是第一たり。下町にては酒屋の根来屋又三郎、上町にては此坂本の才谷屋八兵衛等皆屈指のものなりき。(因にいふ浅井川崎両家は、文化文政以後の出世にて当時は其名なし)・・・【参考・引用】 『南国遺事』寺石正路・著 「其二 坂本家祖先財産」よりこの根来屋又三郎が、墓の主・桂井素庵の事で、『南国遺事』に記載されちゅうように...

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