category: 幕末土佐 | 人物  1/4

中岡慎太郎遺髪墓 - 慶応3年京都近江屋にて坂本龍馬と共に暗殺される

[ 高知県安芸郡北川村柏木 ]北川村の中岡慎太郎館後方になりますが、ちょっと南の山側に150m程ゆるい坂道を上がって行くと山門があるがです。 石段の脇に慎太郎遺髪墓の案内板があるだけで、山門にゃ寺社名の表札も無いけんど、山門をくぐると当時の境内中庭と思われる場所に松林寺跡の碑が建っちょります。 墓碑は、境内左手奥にある。中岡慎太郎遺髪墓地松林寺の参道を上がり、子安地蔵尊の奥にある中岡家の墓地。慎太郎の墓は...

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河野忠之進晴雄 - 迅衝十四番隊士として会津若松で戦死

[ 高知県高知市福井  ]土佐郡井口村(現・高知市)の人で、戊辰戦争・東征に土佐藩の迅衝十四番隊士として従軍し、明治元年9月17日に会津若松城南で戦死しちょります。本墓は、現・会津若松市の東明寺の西軍墓地に埋葬されちょります。会津若松西軍墓地 2 - 故郷遠き会津若松に眠る土佐藩兵49名 2015-10-26   [ 注意! ]■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に...

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片岡利和邸跡 - 土佐勤王党、陸援隊志、明治24年千島列島を探検

[ 高知県高岡郡佐川町乙 ]佐川町の方から猿丸峠を越え、斗賀野の方に下って来ると、左側に片岡利和邸跡の説明板があるがです。元の名は永野源馬と言い、那須橘蔵の養子となって那須盛馬と称し、慶応元年(1865年)片岡源馬(利和)と改名し、中岡慎太郎の陸援隊志の一人ながです。佐川町指定文化財 片岡利和邸跡高知藩士永野(長野)氏の次男として生まれ盛(守)馬といった。鳥の巣村那須橘蔵(橘造)の養子となり深尾領主につ...

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久松喜代馬 - 土佐勤王党に146番目に加盟、井上佐一郎殺害で処刑

[ 高知県高知市東秦泉寺山 ]場所は、西真宗寺山の山の中にあります。久松喜代馬は天保5年(1834)に高知城下の東新町(現・高知市桜井町)の久松圓次重之の三男に生まれ、名を重和というがです。土佐では剣を麻田勘七に習うちょります。この麻田勘七と言う人は、土佐藩馬廻格・麻田利太夫の次男として高知城下に生まれ、勘七は通称で、麻田直養(あさだ なおもと)とう。 江戸で鏡心明智流の桃井春蔵直雄に剣術を学び、土佐じゃ千...

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北代健助 - 堺事件・九番目に切腹

[ 高知県南国市十市 ]写真は、堺事件十一烈士の一人・北代健助邸跡を示す史跡の標柱です。北代堅助は、天保4年(1833)に、長岡郡十市村(現・南国市)の土佐藩郷士の家に生まれちょります。郷士といっても、山内氏入国後の新田開発政策で郷士株を手に入れ、郷士格になっちょります。諱は堅勝、通称は堅介、健助とも書かれる。慶応4年(1868)、箕浦元章(猪之吉)の率いる警備隊の、折衝六番隊に属して摂州大坂・泉州堺の警備の任...

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上田官吉正秋 - 土佐勤王党に75番目に加盟、会津城攻めで戦死

[ 高知県高知市薊野北町  ]場所は、1月15日に記載した東真宗寺山の中島與一郎のお墓の近くにあります。上田官吉は、天保10年(1839)に高知城下浦戸町(現・高知市はりまや町)に用人格の家に生まれ、名は政秋という。土佐勤王党にゃ75番目に血盟同志に加わっちょり、文久3年(1863)に京都に上っちょりますが、平井収二郎が間崎哲馬・弘瀬健太らと青蓮院令旨事件を起こした時、土佐に送還される収二郎の護衛にあたっちょります。ま...

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島村省吾 - 鷲家口の戦いに敗れ逃れるが捕えられ京都六角獄舎へ

[ 高知県室戸市羽根  ]羽根町を通る国道55号線(徳島~室戸~高知)のバス停「羽根船場」と「羽根大敷前」の丁度中間辺りの海側の国道傍に、大きな島村省吾の墓碑が建っちょります。島村省吾は天保15年(1845)安芸郡羽根村(現・室戸市)に生まれ、緯皆は正雄、幼名を武之助という。高知城下へ出て砲術を学び、江戸に遊学し文武を修めたが、特に砲術にゃ優れちょったという。安政6年(1859)頃から脱国して諸藩の志士と交わり、のち...

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中島與一郎 - 土佐勤王党に62番目に加盟、会津母成峠で戦死

[ 高知県高知県高知市薊野北町  ]場所は、岡田以蔵のお墓のある東真宗寺山の竹藪の中(行った当時)に、中島與一郎のお墓があります。 中島與一郎は、土佐藩迅衝隊砲隊士として戊辰戦争に従軍し、慶応4年 (1868)8月21日の奥州・母成峠(勝軍山)の戦い(福島県)で、勝軍(将軍)坂にて二十八歳で戦死しちょります。 同国猪苗代静井寺に葬ると刻まれちょり、土佐の墓は遺髪墓です。数年前、静井寺を参拝したがですが、大雪の日で...

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三原兎弥太正矩 - 土佐勤王党に161番目に加盟、会津若松で戦死

[ 高知県高知市・皿ヶ峰南丘西側  ]場所は、前々回の記事、竹本小弥儀さんのお墓の近くになりますが、こちらは南嶺への登山道の直ぐ脇にあり、傍に立派な説明板がありますき、見かけた方もありますろー。竹本小弥儀 - 河田小龍が美声で名を広めた小弥儀太夫の略伝を書く 2017-01-07 三原兎弥太(みはら とやた)は弘化元年(1844)に生まれちょります。剣を谷恒直に学び、土佐勤王党にゃ161番目の血盟同志として加盟しちょります...

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中島興市郎 - 国境まで脱藩するも足を痛め追っ手に囲まれ自害

[ 高知県土佐市新居  ]中嶋與一郎は天保13年(1842)高岡郡新居郷本村(現・土佐市)の富農、郷士で老役を務める曽平の二男に生まれちょります。祖父・浅右衛門には男子が無かったため、長女の婿に兄・喜左衛門の二男・曽平を養子に迎え生まれたのが與一郎で、二女には梼原郷から竹村猪之助を養子に迎え作太郎(中嶋信行)が生まれるがです。ですきに中島興市郎と、坂本龍馬と海援隊で活躍した中島作太郎(中嶋信行)とは、いとこ...

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龍馬居眠りの堤 - 偉人にありがちな龍馬伝説の一つ

[ 高知県高知市上町五丁目  ]鏡川右岸にある石立八幡宮の対岸辺りになりますが、観音堂があります。その境内に「龍馬居眠りの堤と観音堂」と言う説明板が建てられちょります。 「龍馬居眠りの堤と観音堂」この鏡川(汐江川)で姉、乙女により水練を教わったという龍馬・・・時は小高坂楠山塾(現 城西中学校西隣)を退いた後であろうか、水練で疲れた体をこの附近の堤に身を横たえ休んだいるうちにふと軽い眠りにおちたであろう...

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阿部駒吉 - 戊辰東征・土佐藩迅衝三番隊に参加し会津若松戦で戦死

[ 高知県高知市・筆山 ] 阿部駒吉は天保10年(1839)田所九作元世の4男に生まれ、初め元道、後、洞元(ひろもと)と言う。その後、阿部惣三郎の養子となっちょるがです。土佐勤王党の血盟同志ではないけんど、同志として奔走しちょり、土佐勤王党48番目の血盟同志・田所助次郎元晶は、実弟になる。小南五郎右衛門の従者として上京、次いで山内公子の歩行役(かちやく)となる。小南五郎右衛門 - 上士にあって土佐勤王党への理解者の...

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美正貫一郎 - 三春を賊軍の汚名と戦火から救った土佐藩断金隊隊長

[ 高知県高知市平和町 ]美正貫一郎(みしょう かんいちろう)は、天保15年(1844)に土佐藩医師・下村惇斎の二男とし高知城下南奉公人町(現・高知市上町)に生まれ、慶応2年(1866)同町の土佐藩士徒士格・美正家の養子となり同家を嗣いじょります慶応4年(1868)1月、戊辰の役には土佐藩迅衝隊として参加し、伏見の合戦に参戦し、一番司令に任ぜられ、甲府城を無事に保護するや、「浪士掛探索役」を仰せ付けられる。甲州では、旧武...

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龍馬の姉 乙女居宅之跡 - 乙女姉さんが嫁いだ岡上邸があった場所

[ 高知県香南市香我美町山北  ]司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』の「寅の大変」に、一年八ヶカ月ぶりに土佐に帰って来た場面に、下記のような行がある。翌朝、まだ暗いうちに竜馬は高知城下を発って、街道を東にむかった。途々、出会う人はみな提灯の紋所をみて竜馬と知ると「坂本の坊さん、どこへ行きなさる」ときいた。「山北へ、さ」そう答えると、たれもかれもが竜馬の生い立ちを知っているから、「それはよかった。山北では...

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小笠原唯八(牧野群馬茂郷) - 会津若松攻めで弟と共に敵弾に倒れる

[ 高知県高知市西久万 ]ここも判りずらい場所で、山中をたつくって(土佐弁で、駆けずり回るの意)ようように見つけた、お墓です。墓碑には牧野群馬茂郷とありますが、元の名は小笠原唯八茂郷の事です。小笠原唯八は、文政12年(1829)に高知城下(現・高知市)の、土佐藩馬廻格250石・小笠原弥八郎の嫡男として生まれちょります。文久年間の初めに山内容堂に仕え、のちに大監察兼同軍備御用役や仕置役等の要職に就いちょります。...

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小笠原保馬 - 土佐勤王党に8番目に加盟、母は武市瑞山の姉・美多

[ 高知県高知市介良 ]小笠原保馬は、天保13年(1842)に、城下・鏡川河畔の雑喉場(現・高知市)の小笠原嘉助正孝の子に生まれ、名は正実、通称・忠五郎と言う。父・小笠原嘉助正孝の後妻になる母・美多は、土佐勤王党党首・武市瑞山の姉になりますき、叔父・甥の関係になるがです。武市瑞山墓 - 武士としての誇りと、藩主に対する忠誠の間で 2010-07-11因みに、小笠原嘉助正孝の長女は、土佐勤王党血盟同志・島村左伝次(島村雅...

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平井善之丞閑居地 - おこぜ組の疑獄が起こり蟄居して住んだ場所

[ 高知県南国市岡豊町小蓮  ]場所は、ちょっと前に御紹介しました南国市岡豊町小蓮にある小野神社(小野古城)の参道を登った直ぐ左側に、幕末の土佐藩大監察を務めた平井善之丞が一時期住んだ屋敷跡があった場所じゃそうです。土佐藩第13代藩主・山内豊煕のもとで、天明の改革の大目付として藩政刷新にのりだしたけんど、天保14年(1843)、土佐藩の保守派が対立していた急進改革派(おこぜ組)を投獄する「おこぜ組の獄」が起こ...

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大脇順若 - 安政年間山内容堂の密命を受け京都で朝廷の動向を探る

[ 高知県高知市高見町 ]大脇順若(おおわき まさより)に関しては、以前、潮江天満宮にある碑の記事で記載しちょりますき、省略いたします。大脇順若の建てた碑 - 山内容堂の密命で三条実美と接触した人 2013-10-14遠祖は藤原氏で、始祖とされる大脇助左衛門は織田信長に仕えちょった人で、享保6年(1721)に4代目になる大脇彌五郎忠陳が土佐藩第7代藩主・山内豊常に召抱えられたのが、土佐に於ける始祖じゃそうです。[ 注意! ...

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土居楠五郎屋敷跡周辺 - 坂本龍馬の日根野道場時代の剣の師匠 

[ 高知県南国市十市  ]南国市十市の方の友人に、坂本龍馬の日根野道場時代の剣の師匠じゃった土居保(楠五郎)の屋敷跡があると教えてもらい、撮影して来たがです。ただ、詳しゅい場所は判らんけんど、「この辺りじゃとは聞いちゅうけんど・・・」と言う事でした。土居保(楠五郎)は、長岡郡十市村字糸木(現・南国市十市 の郷士で、日根野弁治道場の師範代として、龍馬が14歳の時から剣の指導をし、人間形成にも深い影響を与えたと...

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山田平左衛門 - 土佐での始祖は山田去暦、その娘は「おあん」

[ 高知県高知市筆山 ]山田平左衛門は、弘化2年(1845)高知城下帯屋町(現・高知市)、知業580石馬廻役の土佐藩士・山田八蔵清粛の子に生まれ、諱は清廉、幼名は山田喜久万と言うがです。武弁をもって知られ、乾退助(板垣退助)らと武力討幕を唱え、慶応4年(1868)伏見の戦いには小隊司令として従軍し戊辰戦争では東北の役にも従軍し抜群の武勲をあげたそうながです。明治6年(1873)征韓論に敗れて高知に帰り、板垣退助や片岡健吉ら...

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森助太郎為政 - 土佐勤王党に158番目に加盟

[ 高知県香南市野市町新宮 ]森新太郎は、文政12年(1829)年、香美郡富家村新宮(現・香南市)の郷士・森喜右衛門の長男として生まれ、名は為政、初め助太郎と言う。文武を好み、竹村東野、岡本寧浦らに学んじょります。竹村東野墓 - 塾生に中岡慎太郎・大石圓・宮地宜蔵ら・・・ 2010-08-05 岡本寧浦 - 私塾を開き多くの志士たちにも影響を与える 2011-08-30嘉永6年(1853)ペリーが率いる黒船4隻が浦賀沖に現れた事で、海防が叫...

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大石弥太郎 - 武市瑞山らの赦免を同志と共に藩庁に歎願するも叶わず

[ 高知県香南市吉川 ]土佐勤王党結成に尽力し、盟約書の起草も手掛け、自身も2番目の血盟同志に名を連ね同党幹部として活動しちょります。文久3年(1863年)の八月十八日の政変を気に、土佐でも土佐勤王党への弾圧が始まり武市瑞山をはじめ主要な勤王党員が投獄されるなか、大石弥太郎自身は常に藩命により行動していた事が幸いして、投獄は免れたそうです。投獄を免れた同志達は、武市瑞山の赦免を嘆願し、建白書を提出するがで...

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村田忠三郎 - 土佐勤王党の獄で山田橋獄舎に投獄される

[ 高知県香南市吉川 ]村田忠三郎は、兄・村田右馬太郎(帰本)とともに土佐勤王党に加盟しちょります。江戸に出て千葉道場で剣を学んじょります。五十人組にも加わり、山内容堂の警護として江戸に出、翌年、容堂が京に上り、土佐に戻るまで側役を務めちょります。土佐勤王党への弾圧が始まると、捕らえられて山田橋獄舎に投獄され、藩吏・井上佐一郎殺害事件の容疑で、処刑されちょります。【 参考・引用 】  『土佐の墓』 ...

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宮田節斎 - 土佐勤王党に127番目に加盟・野根山二十三志士の一人

[ 高知県高知市春野町弘岡上  ]宮田節斎は天保7年(1836)に、吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市春野町)に生まれちょります。幼い時から、学問を好み医学を学び、嘉永2年(1849)に高岡郡蓮池村正覚寺の住職となっちょります。が、安政3年(1856)に何があったのかは分からんけんど、職を失って、安藝郡伊尾木村(現・安芸市)に追放になり、安田村の医師・宮田謙次に仕え更に医術を学ぶ傍ら、同村の儒学者・高松淳蔵に就き經史を学ぶがで...

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古沢迂郎 - 土佐勤王党に138番目に加盟

[ 高知県高岡郡佐川町甲  ]古沢迂郎は弘化4年(1847)に佐川・深尾家に代々仕える家臣・古沢南洋の二男に生まれ、初名を光迂、後に滋と名乗っちょります。兄は、土佐勤王党に134番目に加盟しちゅう岩神主一郎です。岩神主一郎 - 土佐勤王党に134番目に加盟  2015-03-27文久2年(1862)15歳の時、上洛し平井収二郎に気に入られ国事に奔走するがですが、文久3年(1863)に平井収二郎は間崎蒼浪、広瀬健太らと藩を勤王へと藩政改革を...

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村田馬太郎 - 土佐勤王党に97番目に加盟

[ 高知県香南市吉川 ]中央の墓石が村田馬太郎(帰本)夫妻の墓で、手前左は土佐勤王党の獄で投獄され斬首刑に処せられた弟の村田忠三郎の墓です。村田馬太郎は天保9年に香美郡古川村(現・吉川村)の郷士・村田新十郎の長男として生まれ、名を有尚、のち帰本と言う。始め医術を学び医を業とし、安政5年(1858)津藩(現・三重県津市)に遊学する事3年、斎藤抽堂(さいとう せつどう)に入門しちょります。ちなみに斎藤抽堂は、津藩...

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中山刺撃 - 土佐勤王党に137番目に加盟

[ 高知県高岡郡佐川町 ]周辺にある墓域は、かなり荒れ果てちょり、一部を除いて殆どが無縁墓の様相でした。中山刺撃は土佐勤王党に血盟加盟した時の名で、棚橋御樹(たなはし みき)が本名ながです。中山刺撃(棚橋御樹)は、弘化元年1(1844)に佐川騎馬百五十石取・棚橋清左衛門の子として生まれちょります。土佐勤王党に加盟した中山刺撃(棚橋御樹)は、文久3年(1863)に土佐勤王党の獄(弾圧)の際には、初めは親類預けとな...

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楠瀬六衛直樹 - 土佐勤王党に169番目に加盟

[ 高知県高知市秦泉寺 ]楠瀬六衛直樹は、天保13年(1842)に土佐の文人・楠瀬大枝の子として高知城下新町(現・高知市桜井町)に生れ、剣を武市瑞山に学んじょります。 文久2年(1862)吉田東洋暗殺後、探索厳しく党員間で議論沸騰して集団脱藩の動きさえあった際、瑞山の密使として書簡を山内容堂の弟で勤王党に協力的な山内民部に届け、遂に重役更迭を見た。6月藩主・山内豊範に付き従って上京し、10月勅使東下に正勅使・三条実美...

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中岡慎太郎像 - 平成11年、生誕160年を機に建立される

[ 高知県安芸郡北川村柏木 ]中岡慎太郎の古里北川村の、中岡慎太郎記念館や生家跡のある一角に、中岡慎太郎像は建っちょります。中岡慎太郎生家跡 - 復元され高知県と北川村の指定文化財に 2015-06-19中岡慎太郎記念館 2014-10-25 中岡慎太郎像中岡慎太郎は、天保九年(一八三八年)四月十三日当地柏木に大庄屋の長男として生れる。徳川の幕政が弱体化し、武家社会の矛盾が怒りとなって民衆の心を動揺させていた幕末の時代であ...

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村田角吾 - 土佐勤王党に98番目に加盟

[ 高知県香南市吉川 ]村田角吾貞宜は文政3年(1820)に村田克隆の二男に生れ、村田馬太郎(帰本)、その弟・忠三郎らと勤王を唱え、土佐勤王党には98番目に加盟しちょります。文久2年(1862)に、三条実美が勅使として江戸へ下る際、土佐藩主・山内豊範がこれを護衛することになったけんど、随行出来んかった同志たちは山内容堂の警護に当るため自費で江戸に出て、組織された五十人組の六番隊伍長・中岡慎太郎の班に加わり、容堂を警...

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吉田東洋邸跡 - 東洋は城中からの帰邸途中、邸傍で暗殺される

[ 高知県高知市帯屋町1丁目 ]吉田東洋邸跡帯屋町一丁目北側にある。【 出典・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿・著 (昭和44年)より抜粋とあり、写真は、中ノ橋通りと掘詰の間の帯屋町商店街北側を写しちょりますが、写真左側の裏(北側)辺りが土佐藩参政・吉田東洋邸があったそうです。 写真じゃとちょっと見づらいけんど、ローソンの手前(確か)三軒目じゃったと思うけんど北側に入るコンマイ路地がありまし...

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山地元治生誕地 - 土佐の独眼龍将軍

[ 高知県高知市越前町 ]写真左側が「百々越前守邸跡」で、道路を挟んで右側(方角的には西側)が、 山地元治の生れた邸跡じゃそうです。山地元治誕生地越前町三十四、三十五番地(旧町名)一帯が邸跡である。元治は忠七ともいう。十三歳の時、遊んでいる時、竹で右眼をさした。或いは柿の木から落ちたともいう。とにかく一眼を失ったので後には独眼将軍といわれた。・・・・・【 参考・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延...

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千屋家墓所 - お龍の妹・君江が嫁いだ菅野覚兵衛の親族の墓

[ 高知県芸西村和食甲  ]芸西病院の西約500mの所にある、八幡宮の東側に千屋家墓所はあるがです。 和食庄屋千屋家庄屋職は藩が選んだ村役人で、村民の頂点に位置し、藩の末端の行政を行っていた。文化十年(1813)千屋宗衛門が庄屋になった。その長男千屋半平は後に半山(現在の津野町葉山)庄屋となり、和食二代目庄屋職は養子の民五郎が継いだ。半山庄屋となった千屋半平の二男菊五郎、三男金策は共に勤王の志士として活躍したが...

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野中太内助継 - 新おこぜ組の一人で東征を拒否し切腹を命ぜられる

[ 高知県高知市塩屋崎・筆山南面  ]野中兼山一族の墓所の記事で、同じ墓所内に眠っちょる野中太内助継のお墓です。野中兼山 - 野中兼山一族の墓所 2015-10-13野中兼山の血縁関係にない野中兼山の実祖父・野中良平の兄弟・野中逐継の子孫の家系の人ながでして、五人扶持切符15石小姓組・野中三八持継の甥になる永井新平の二男で、養子となって野中家を継いじょります。吉田東洋の私塾少林塾の師弟たちが中心となった新おこぜ組と...

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鍋島米之助 - 天誅組に参加し鷲家口で彦根藩兵と激闘の末に討死

[ 高知県高知市城山町 ]鍋島米之助は天保11年(1840)に潮江村(現・高知市)に生れ、同郷の同志・楠目盛馬と仲が良く進退を共にし、文久の始め脱藩し上方に出て、尊王攘夷のために国事に奔走しちょります。文久3年(1863)8月、吉村虎太郎が大和五條で義兵を挙げるや、楠目盛馬、那須信吾、森下幾馬らと天誅組に参加ししちょります。しかし天誅組の敗北は色濃く、各藩の追討軍の包囲網は容赦なく十津川にも押し寄せるようになり、隊...

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山本喜三之進 - 土佐勤王党に156番目に加盟

[ 高知県香南市野市町 ]山本喜三之進(やまもと きそのしん)は、天保8年(1837)に生れ、土佐勤王党にゃ156番目に加盟しちょります。因みに弟・山本四郎は64番目の血盟同志、妹は文久2年(1862)那須信吾・安岡嘉助と土佐藩参政・吉田東洋暗殺の実行犯の一人・大石団蔵(高見弥市)の妻ながです。土佐勤王党の獄で捕えられた武市瑞山らの釈放に向けての運動を行うも、文久2年(1862)の近江石部宿で起こった京都町奉行所与力暗殺...

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安岡嘉助 - 吉田東洋暗殺後脱藩し天誅組の挙兵に参加する

[ 高知県香南市香我美町山北 ]安岡嘉助は、香美郡山北村の郷士・安岡正理(文助)の二男として生まれ、土佐勤王党に参加しちょりますが血盟名簿には名は残っちゃーしません。文久2年(1862)那須信吾・大石団蔵らと吉田東洋を暗殺して、その足で土佐を脱藩し、長州へ逃れ、その後京に上り、長州の久坂玄瑞や薩摩藩の庇護を受け、文久3年(1863)天誅組の挙兵に参加するけんど戦闘で負傷して捕えられ、京都の六角獄舎で処刑されち...

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筒井米吉 - 土佐勤王党に151番目に加盟

[ 高知県安芸郡芸西村和食 ]筒井米吉(清興)は、土佐勤王党に151番目の血盟同志になっちょりますが、詳しい事はわかりません。墓石の右側面(向って)に下記のように、刻まれちょります。清明長子也 壯歳奔走干国事後還而營農 明治三十二年一月七日 六十六歳土佐勤王党員として国事に奔走したけんど、維新後は和食に戻んて来て農業に従事したようです。【 引用・参考 】  『土佐の墓』 山本泰三・著[ 注意! ]■ 墓探...

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