category: 幕末土佐 | 関連場所  1/4

檜垣繁太郎生家跡 - 野根山二十三士の一人で十六才で 奈半利河原に散る

[ 高知県室戸市羽根 ]室戸市羽根に義人・岡村十兵衛を祀る鑑雄神社があるがですが、その西側に「かがみ保育園(行った当時は閉鎖)があり、その西側のちょっと奥まった場所に、写真のように立て札が立っちょりまして、近くによって読んでみると、此処が野根山二十三士の一人・檜垣繁太郎梁之の生まれた場所と書かれちょりました。鑑雄神社 - 羽根浦の浦人達が恩人・岡村十兵衛を神として祀る 2015.10.28 檜垣繁太郎生家跡檜垣...

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赤岡砲台跡 - ペリー来航後外国船襲来に備え大砲四門を据え海防

[ 高知県香南市赤岡町 ]土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の赤岡駅を出て、海側の西側高架下に、赤岡砲台跡の説明板が建てられちょります。 弘化時代の砲場跡嘉永六年(1853)六月アメリカの使節ペリーが来航し、海防意識が高まり海防軍備の再編成がおこなわれるようになった。この砲場は、幕府の外国船襲来に備え大砲を四台据えてあった跡である。当時は、駆けつけ浪人多数が防備隊として駐屯していた。彼らを受け入れ賄(まかな...

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野根山二十三烈士の墓 - 武市瑞山の釈放を求め刑場の露と消える

[ 高知県安芸郡田野町・福田寺  ]田野駅の東約400m程の所で、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架と国道55号線(高知東街道)が交差しちょりますが、その南側辺りに、浄土宗福田寺があるがです。福田寺を、普通に読んだら「ふくだ寺」と読むと思うけんど、正しい読みは「ふくでん寺」です。このお寺さんは、野根山二十三烈士の首領・清岡家の菩提寺でもあり、境内に野根山二十三烈士が眠っちょります。 本堂正面、武市瑞山像...

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観音の馬場 - 村田馬太郎・忠三郎兄弟屋敷裏山の弓道的場と馬場跡

[ 高知県香南市吉川 ]観音の馬場この土地は、古くから「観音の馬場」といい、郷士村田家の馬場・弓道の鍛錬場として利用されていました。延長一五〇メートルの帯状の土地には、大きな松があり芝地でしたが、今はその面影はなく、観音堂とその右側に石積みの的場跡が残されています。吉川村教育委員会【 参考・引用 】  説明板より 土佐勤王党血盟同志じゃった村田馬太郎と村田忠三郎兄弟の屋敷裏山に造られちょった、弓道と...

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吉野の桜 - 龍馬が出藩を決意し「桜」を見に行くと言って家を出る

[ 吉野川沿いに北方向を見る ] [ 吉野川沿いに南方向を見る ] 撮影地 : MapFan地図へ[  高知県高知市神田吉野  ]今回は、前回投稿の記事にも一寸関係のあるお話です。石土神社と石鎚神社 - どちらも同じ神さんで石鎚山は蔵王権現の化身 2015-04-10文久2年(1862)3月24日坂本龍馬は、 「吉野に花見に行く」と言って家を出て坂本家の守神・和霊神社に寄った後、そのまま出藩しちょりますが、実際に坂本龍馬が 「吉野」を経...

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龍右衛門桜(仮称) - 土佐勤王党・矢野川龍右衛門の墓前に建つ

[  高知県高知市  ]今日31日、昨日の天気予報通り、午前中は雲が多いながらも青空が見えちょりましたが、午後からはどんよりと曇って来ました。夜には雨になり、明日は午前中に雨は上がるものの、明日から一週間の天気予報は雨か曇りのマークが続いちょりますき、今年の桜の撮影は残念ながら今日で御終いです・・・・・。そのかわり、近場で何箇所か撮影して来ましたき、数日撮り溜めた写真を使って、今年の高知市の桜の記事にし...

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和霊神社 - 桜 2015.03.30

[  高知県高知市神田・和霊神社  ] 今日は、お天気が良かったき、坂本龍馬が出藩の決意をして 「吉野に花見に行く」と言ってやって来た、坂本家の守神・和霊神社に桜を見に行って来たがです。 和霊神社 - 新しい維新の夜明けを目指して 2010-03-28 高知地方気象台は、今日30日に高知城のソメイヨシノが満開になったと発表したけんど、高知市周辺の天気予報を見たら、また明日から暫く晴天が望めそうもないような予報になっち...

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赤土峠 - 佐川勤王五士達の「脱藩志士集合之地」碑

[ 高知県高岡郡佐川町と高知県高岡郡越知町の間にある峠  ]佐川町の四国電力佐川発電所傍にある川内ヶ谷バス停傍に、この「脱藩志士集合之地」碑が建っちょります。 国道33号線の三叉路を右折して写真の碑の前の旧道を約1.5Km程上って行くと、赤土峠があるがです。 旧道は、比較的傾斜のなだらかな坂道が続いちょり、しばらく上って行くと右側に四国のみち「越知町街-佐川町街」の標識が見えてきます。此処が峠じゃろうか、ちょ...

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渡辺一寸 - 手裏剣の名手で、山内容堂の護衛を務める

[ 高知県高知市宇津野 ]高知市の久万川に流れ込む名切川と言う川幅のこんまい(小さい)川があるがですが、その上流に一ノ谷渓谷遊歩道と言う所があり、その谷川沿いを上って行った左手の山の斜面の上の方に、このお墓はあるがです。目印に、下記の看板があります。この人は、 天保6年(1835)に土佐郡久万村(現・高知市)の組外足軽・喜之丞の二男に生れ、名を松枝、後の名を一寸、通称・松之丞と言い、坂本龍馬と同い年になるが...

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野根山二十三烈士殉節の地 - 藩は一度の取り調べもせず極刑に処す

[ 高知県安芸郡田野町 ]田野町と奈半利町の境を流れる奈半利川右岸に、写真の二十三士公園はあるがです。 此処が、元治元年(1864)9月5日、一連の土佐勤皇党の獄で捕えられ投獄された武市瑞山や勤王党員の助命嘆願や藩論の挽回を目的に、安芸郡下の同志が野根山に屯集したが、土佐藩は反逆を画するものとして捕え、首領・清岡道之助以下二十三烈士が、此の地で処刑された殉節の地ながです。野根山二十三士の殉難野根山二十三士...

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高松順蔵邸跡 - 坂本龍馬の長姉・千鶴さんの嫁ぎ先

[ 高知県安芸郡安田町安田 ]安田町役場の前にある、安田八幡宮参道入り口に、この安田町教育委員会の建てた「高松順蔵邸跡」の案内板が建っちょります。御存じの方が多いと思いますけんど、「高松順蔵邸」ちゅうのは、坂本龍馬の長姉・千鶴さんの嫁ぎ先ながです。 地図を頼りに、細い路地を入って行ったがですが、今は、「高松順蔵邸」じゃったと言う痕跡はなく、民家が密集しちょります。 【 ①番目の撮影地 】 【 ②番目の撮...

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奥宮慥斎屋敷跡 - 尾崎源八や小畑孫次郎らも陽明学を学ぶ

[  高知県高知市布師田  ]国分川沿いを自転車で走りよったら、山側に何やら高札のような物が見えたき、気になって寄ってみたら、奥宮慥斎屋敷跡と書かれちょりました。奥宮慥斎は、陽明学者で山内容堂の侍講じゃった人です。奥宮慥斎 - 門人たちに尊王の大義を鼓吹する 2012-02-29奥宮正樹 - 土佐での伊能忠敬の測量に随行 2014-08-13奥宮 禮(暁峰・正路) - 多くの墓碑や記念碑の撰文に名を残す 2013-06-02高札にゃ岩崎弥太...

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岡本寧浦生誕地 - 幕末・門人から多くの逸材を輩出した土佐の儒学者

[ 高知県安芸郡安田町  ]幕末の土佐藩の儒学者・岡本寧浦先生の生まれたのが、安田町にある乗光寺で、寛政元年(1789)に第5代住職の子として生まれちょります。 岡本寧浦塾舎跡 2010-01-04岡本寧浦 - 私塾を開き多くの志士たちにも影響を与える 2011-08-30高知の城下に私塾を開き、門人の数千人にも及び、武市瑞山、河田小龍、間崎滄浪、清岡道之助、清岡治之助等、幕末の志士や人物たちに大きな影響を与え、多くの逸材を輩出し...

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石田英吉邸 - 坂本龍馬と亀山社中や海援隊で活躍した海援隊隊士

[ 高知県安芸郡安田町中ノ川 ]安田町から北に馬路道を安田川沿いに遡り、北寺の手前の中ノ川を左折し川沿いに静かな山間の路を上って行くと、左手に尊王攘夷に身を投じ吉村虎太郎や池内蔵太らと天誅組に参加し、その後、坂本龍馬と亀山社中や海援隊の結成に参加し、下関海戦じゃユニオン号の指揮を任せられた石田英吉邸があるがです。 石段を上って行くと、立派な石積塀と門構えがある。 今は、住む人はおらんようじゃけんど、此...

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石立大砲鋳造所跡 - 幕末、海防のために大砲を造る

[ 高知県高知市東石立町 ]幕末、日本の周辺にゃ多くの外国船が出没するようになり、幕府は諸藩に外国船打ち払い令を出し、土佐藩もこの命に従って、大砲を造るがです。石碑も何もありませんき場所の特定は出来んがですが、当時「石立村鍋焼(現東石立町)」と言うちょった場所は、この辺りじゃないかと思われます。地名の鍋焼と言うのは須崎の「鍋焼きラーメン」にゃ、関係ないぜよ・・・・まあ冗談はおいちょいて、元は鍋釜類を...

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袂石 - 坂本龍馬最後の帰国、近くに震天丸を係留する

[ 高知県高知市御畳瀬 ]この海中からひょっこり顔を出しちゅう小岩が「袂石(たもといし)」ながです。遠くから見たら雪を頂いた富士山のように見えるけんど、実はこりゃー「カワウ」の糞害によるがですき・・・。伝承によるとこの袂石は「昔、鬼が袂に入れて来てここに置いたがじゃと。その石が次第に大きゅうになって今の姿になっちゅうと言う、成長する不思議な石じゃ。」と伝わっちょります。普通、鬼言うたら虎柄のパンツを...

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村田忠三郎邸 - 井上佐一郎殺害を自白し死罪

[ 高知県香南市吉川町 ]坂本龍馬より5つ年下で、江戸では龍馬と同じ千葉定吉・重太郎に北辰一刀流を学び、土佐勤王党にゃ47番目に加盟しちょります。文久2年(1863)藩主・山内豊範の参勤に従って上洛し吉田東洋暗殺の下手人探しをしよった井上佐一郎を、岡田以蔵らと絞殺してしまうがです。しかし文久3年(1863)八月十八日の政変(堺町御門の変)で、土佐藩も土佐勤王党に対する厳しい弾圧が始まり、岡田以蔵の井上佐一郎殺害の自...

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半船楼跡 - 坂本龍馬が渡辺弥久馬と会談したとされる料亭

[ 高知県高知市五台山 ]慶應3年9月24日、坂本龍馬はライフル千丁と共に土佐に戻んて来て、御畳瀬の袂石の近くに震天丸を停泊する。そして、坂本龍馬と土佐藩との会談を行った場所の一つ「半船楼」があったがが、この五台山小学校の辺りじゃと言われちょりますが正確は場所の特定は出来んがです・・・。写真の百々軒橋(もものきばし)を渡ると、五台山への登りの参道に続き(小学校の右側から)、当時は川岸に船着場があり藩の米...

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土方久元邸跡 - 土佐勤王党に21番目に血盟

[ 高知県高知市北秦泉寺 ]土方久元(ひじかた ひさもと)は天保4年(1833)に土佐藩の用人格の郷士・土方理左衛門の長男として土佐郡秦泉寺村(現・高知市)に生まれ、通称・楠左衛門、変名・南大一郎、維新後に久元と改めちょります。号を秦山と言う。土方楠左衛門(土方久元)は、桂浜にある「坂本龍馬彰勲碑」に「東走西奔不顧身 長山薩海住来額 奇勲未奏罹奇禍 遺恨千秋泣鬼神」と坂本龍馬を弔う七言絶句を残しちゅう。安政...

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千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡

[ 高知県安芸郡芸西村和食 ]「海援隊」隊士で坂本龍馬の義弟になる千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡が、この辺りのようながです。ちょっと前の記事で書いたけんど、龍馬の死後に土佐に来た「お龍」さんが、坂本家を出た後一年程滞在しちょった場所でもあるがです。文化10年(1813)千屋宗左衛門が和食の庄屋職に就き、後に長男・半平は半山庄屋(現・高岡郡津野町葉山)になり、和食の二代目庄屋は養子の民五郎が継いじょります。...

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須崎村庄屋屋敷跡 - 吉村虎太郎も一時期在任

[ 高知県須崎市東古市町 ]説明板にゃ、下記のように書かれちょります。須崎村庄屋屋敷跡山内藩政時代、須崎村(郷浦)に庄屋が置かれ川渕氏が幕末まで代々世襲して村方の支配をしてきた。幕末期には、土佐勤王党で天誅組に参加し、大和十津川で倒幕の兵を起した吉村虎太郎が転任してきた。虎太郎は、郡奉行の役人と宴席で口論となり呼び捨て事件を起す。その後、下分村庄屋(新荘)へ転任となる。何でも、土佐藩の下役人に呼び捨...

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由比猪内 - イカルス号事件で談判した土佐藩代表の一人

[ 高知県高知市・筆山 ]慶応3年(1867)7月6日、長崎で英艦イカルス号水夫2人が殺害されるというイカルス号事件が起こり、坂本龍馬率いる「海援隊隊士」に嫌疑が及ぶ事になる。この時、須崎湾に浮かぶ土佐藩・夕顔丸船上で、土佐藩代表の一人として、英公使・バークスと談判した人ながです。近藤長次郎とも接点があり、安政6年(1859)に由比猪内の下僕として江戸に出、岩崎弥太郎の師でもあった安積艮斎の門人とっちょります。また...

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田中良助邸 - たびたび坂本龍馬も訪れた場所

[ 高知県高知市柴巻 ]田中良助邸は、台風などの風除けの為に、南斜面に面した正門は2m程の高い石垣で守られちょります。かって此処にあった坂本家の領地である坂本山を管理しよったがが、田中良助さんじゃったがです。坂本龍馬は幼少の頃より田中良助邸を訪れては将棋を指したり、また裏山でウサギ狩をしたり八畳岩に登って高知城下を眺めながら酒を酌み交わしたりと親しい間柄じゃったがです。二人の逸話の中で、坂本龍馬が田中...

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吸江庵跡 - 坂本龍馬も此処から浦戸湾を眺めたろー

[ 高知県高知市吸江 ]坂本龍馬が、土佐に最後の帰国をした際に、足跡を残しちゅう場所ながです。坂本龍馬も、この浦戸湾の眺めを目に焼き付けたろーねー。慶応3年(1867)9月24日、長崎から芸州藩・震天丸に武器を積んで浦戸湾に入り、この吸江寺或いは近くの茶亭で土佐藩の参政・渡邊弥久馬、大監察・本山只一郎、同森権次らと会談しちょるがです。会談後、坂本龍馬は三条家の戸田雅楽を伴って、懐かしい家族の待つ坂本家の門を潜...

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池上弥三吉 - 堺事件・三番目に切腹

[ 高知県高知市大津 ]池上弥三吉(やさきち)は、天保2年(1831)長岡郡大津瀬戸(現・高知市)に生まれ、名を光則と言う。慶応4年(1868)に泉州堺表警備六番隊小頭として警備中、事件は起こるがです。仔細参考は堺事件を・・・。この事件で、連座責任を取り、三番目に切腹しちょります。享年38歳。 時世の句 『皇国のために 我が身を捨ててこそ しげるむぐらの 道ひらきすれ』[ 参考 ]■ 『高知県人名事典』 高知新聞社■ 『...

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西郷隆盛宿泊の地跡 - 豪商・川崎家邸の一室・燕雀楼

[ 高知県高知市南はりまや町1丁目 ]慶応3年(1867)に薩摩藩・島津久光の使者として土佐に来た西郷隆盛が、七日間滞在しちょった場所が、豪商・川崎家邸の一室・燕雀楼じゃったそうです。戦後、この地を借り受け旧「料亭・濱長」さんが営業しよった場所(現在は高知市唐人町に移転)で、当時は門を入ると築山があり由来が書かれちょったとか。写真じゃとコンビニのある周辺になるがです。西郷隆盛は、藩主・山内容堂や家臣たちと会...

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西村左平次邸跡碑 - 堺事件・2番目に切腹

[ 高知県南国市稲生 ]西村左平次は弘化2年(1845)土佐郡江ノ口村(現・高知市)の馬廻組・西村清左衛門の子として生まれちょります。慶応4年2月7日泉州堺表警備八番隊司令となるが、同月15日に発生したフランス軍との紛争の際、同じ土佐藩の六番隊司令・箕浦猪之吉と共に発砲を命じ、フランス水兵16名が殺傷した事件が起こるがです。フランスの要求、は関わった土佐藩兵士をすべて処罰せよとの無理難題じゃったけんど、隊長以下二...

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新宮馬之助の奉納絵馬 - 河田小龍に弟子入り前後の作品

[ 高知県 香南市 野市町新宮 熊野神社 ]この絵馬が、新宮馬之助が16歳の時に描いたと言われちょります「劉備玄徳檀渓渡河之図」の奉納絵馬ながです熊野神社 - 熊野信仰のお宮さんで野市新宮の産土神 2013-01-06三国志で知られちょります劉備玄徳が馬駆ける姿が、力強く描かれちょります。新宮馬之助は、小さい頃から絵が上手やったと言うけんど、16歳でこんな迫力のある絵が描けるがじゃきねー。凄いねー・・・。絵馬の右下...

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八畳岩 - 龍馬と田中良助さんが酒を酌み交わしよった場所

[ 高知県高知市柴巻 ]坂本龍馬の生家から北に直線距離で約5.3km行った北山に坂本家の持山があり、その山の管理をしよった田中良助さんの家がある。此処には、龍馬もよう遊びに来よった場所で、その裏山にある八畳岩と呼ばれる岩の上で、よう二人で酒を酌み交わしよったそうながです。 実際岩の上に上がって見たら、八畳はちょっとオーバーじゃけんど大きな岩で、南側は断崖になっちょります。 高知城下を見ながら、二人で酒...

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郷士屋敷跡 - 僅かに雰囲気の残る場所

[ 高知県高知市西町 ]この西町の通りは、郷士らーの屋敷が建ち並んじょった辺りながです。今じゃ、当時の面影を垣間見る事は出来んけんど、それでも所々、垣根に矢竹を廻らした家屋が残っちょります。矢竹は、節の隆起が少なく、節間が長いので弓矢の矢を作るのに適しちょり、戦になった時に必要な弓矢造りのために、武家屋敷にゃ植えられちょったがです。MapFan地図へ...

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渡し場に続く道 - 坂本龍馬や勤皇の志士、お遍路さんも通った往還

[ 高知県高知市春野町森山 ]新川に残る旧家 - 江戸時代からの交通の要所の地 2011.10.22の続きで、新川の大師堂前の仁淀川河川敷に残る「渡し場跡」に続く道なが。歴史写真家・前田秀徳氏の『写真集・龍馬脱藩物語」にも掲載されちょりますが、アングルを変えて撮ってみたがです。坂本龍馬が脱藩の際に通った道と幾つか説かあるけんど、歴史写真家・前田秀徳氏の『写真集・龍馬脱藩物語」にもある旧説の脱藩道の一部が、この道...

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谷千城旧邸跡 - 硬骨の土佐人

[ 高知県高知市西久万 ]現在、谷干城邸址は谷干城とは無縁の個人のお宅になっちょり、当時の建物は残っちゃーせんけんど東隣にある土蔵だけが、当時の面影を残しちゅう。谷干城は、天保8年(1837)、儒学者・谷万七の第4子として土佐国高岡郡窪川に生まれちょります。土佐学問の中興の祖と言われちょります、谷秦山の後裔になるがです。父が、土佐藩に上士(小姓組格)として取り立てられてからじゃと思うけんど、幕末期に高知城...

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旧山内家下屋敷長屋展示館

http://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=1268# [ 高知県高知市鷹匠町1丁目 ]幕末の元治元年(1866)に土佐藩第15代藩主・山内容堂の別邸下屋敷・南御屋敷の東隣にあった武家屋敷7軒を召し上げて建てられたががこの武家長屋で、通称・散田邸と呼ばれちょり、国の重要文化財になっちょります。警護のための武士たちのために建てられた長屋じゃそうです。現在、無料の展示館として使用されちょり...

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中島信行 - 坂本龍馬最後の帰国の際にゃ同行

[ 高知県土佐市塚地 ]中島信行は、弘化3年(1846) 高岡郡塚地村(現・土佐市)に郷士・中島猪之助の長男として生まれ、名を作太郎と言い、後に信行と名乗っちょります。土佐勤王党にも加盟しちょりますが、どういてか血盟名簿にゃ名は残ちゃーしません。元治元年(1864)、従兄弟の中島与一郎、新居村の庄屋の子・細木元太郎と共に脱藩するがですが、従兄弟の与一郎は途中、国境の水の峠で足を痛めてしまい捕吏に囲まれ自刃するが...

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左行秀邸跡 - 龍馬も一時期、腰に差した刀

[ 高知県高知市上町2丁目 ]坂本龍馬のエピソードの中に、龍馬の兄・権平さんが依頼してこしらえた龍馬が腰に差しちょった刀を、親友の甲藤馬之助の甲冑と交換したと言う話があるけんど、その刀を鍛えた人が名刀工・左行秀ながです。左行秀は、元は筑前の人で豊永行秀と言い、江戸に出て刀工・清水久義の門人になり備前伝を習得後、諸国を廻って研さんし、弘化3年(1846)土佐藩の御用鍛治・関田真平勝広の斡旋で土佐に来たがです。...

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山内容堂・西郷南州会見の地 - 四侯会議に向けて

[ 高知県高知市鷹匠町・ホテル三翠園庭内 ]此処は、はりまや橋のレプリカの記事でご紹介した場所と同じ、ホテル三翠園の庭内ながです。はりまや橋のレプリカ - 明治41年から昭和4年まで架橋されちょった 2011.06今でこそホテル三翠園さんの敷地にあるがですが、そもそも此処は山内容堂の別邸・散田屋敷があったがですが、戦後売却されて、その大部分がホテル三翠園となっちゅうがです。と、前置きはこれ位にして本題を・・・...

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島浪間義親邸跡 - 作州で盗賊と間違われ無念な最期

[ 高知県高知市長浜 ]島浪間義親は、慶応元年(1865)2月22日、同じ土佐出身の井原応輔・千屋金策、それに岡山出身の岡元太郎の4名で作洲(岡山)の山村で盗賊と間違われ、大勢の地元民に襲われ、四人とも自決しちょります。さぞかし、無念じゃったろー・・・・・。この泣ける話は、歴史写真家・前田秀徳氏の『龍馬とその仲間たち―世紀を越えて語り継ぎたい話』、p29の「その一 晩冬に消えた男たち」に詳しく書かれちょります...

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大石弥太郎生家跡 - 土佐勤王党に2番目に加盟

[ 高知県香南市野市町下井 ]大石弥太郎は、文政12年(1829)香美郡古川村(吉川村)の郷士・大石平右衛門元介の長男として生まれ、名を元敬、通称・弥太郎と言い、圓(まどか)と言うのは後になって名乗った名前ながです。国学は、武市半平太の叔父になる鹿持雅澄に学んだ事で、多くの影響を受けた仲間たち同様、勤王へと傾いて行ったがじゃろー・・・・。また後年、土佐勤王党の同志となる門田為之助の父・門田利實にゃ、一玄琴...

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