category: 見る | 純信お馬-はりまや橋  1/1

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お馬さん - 安芸川以東追放になり神峯寺登り口の旅籠に女中奉公

[ 高知県安芸郡安田町唐浜 ]場所は、写真に写る土佐くろしお鉄道ごめんなはり線の高架下を右にくぐると、直ぐ、以前に神峯寺への上り口の神峯神社鳥居傍にある「へんろ石」をご紹介した場所になるがです。へんろ石 - 26 第27番札所・神峯寺への上り口の神峯神社の鳥居傍 2015-02-23その高架下に「よさこい秘話」と言う説明板が建てられちょります。 五台山、竹林寺の学僧二百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お...

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前身は小間物商「橘屋」 - 純真が、お馬さんに「かんざし」を買った店

[ 高知県高知市はりまや町1丁目 ]長宗我部家臣団の中に、国吉甚左衛門親綱と、その子(二男)国吉五左衛門幸親の名がある。この国吉家は、長宗我部氏と同じ秦氏の出で、始めは上村姓を名乗って現・香南市香我美町の国吉城(王子城)を居城とした武将で、12代目の国吉甚左衛門親綱が国吉姓に改め長宗我部国親に仕え、元親が四国平定をした際、讃岐・長尾城を守ったようですが、天正13年の羽柴秀吉の四国征伐後に、土佐に戻んちょ...

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純真お馬逢引の岩 - 「よさこい節」に唄われたカップル

[ 高知県高知市五台山 ]「よさこい節」でお馴染の純真・お馬さんが、逢引きをしよったと伝わっちょる「純真お馬逢引の岩」ながです。純真37歳。お馬さん17歳。親子程の歳の差カップルが、ここで二人して岩の上に座って、何をか語らいよったがでしょうねー。知っちょるけんど語ることが出来んがは、傍で聴きよった石仏だけ・・・・・。 この石仏は文政2年(1819)に開かれたと言う、五台山にあるミニ八十八ヶ所の一つ「七十五番・善...

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櫃屋道清 - 播磨屋宗徳と「はりまや橋」を架ける

[ 高知県高知市筆山 ]松本太郎右衛門重利は天正18年(1590)に生まれた人で、櫃屋道清と言う。初代の父・長勘解由重長は紀州松江(現・和歌山市)の人で天正13年(1585)の織田信長と羽柴秀吉による紀伊征伐の戦乱を逃れて長宗我部元親を頼って土佐に来て、浦戸に住み五台山櫃ヶ谷に領地を与えられたと言う。屋号の「櫃屋」は此処から来ちゅうと言う。山内一豊の入国後は高知城下に移り、2代目・櫃屋道清の代で特権商人として仕え財...

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播磨屋宗徳記念碑 - はりまや橋の原型を架けた一人

[ 高知県 高知市 瀬戸東町 ]よさこい節にも歌われ、ガッカリ名所じゃ何じゃと言われる「はりまや橋」は、山内氏の藩政初期(1600年頃)に堀川を挟んであった「播磨屋宗徳」と、「櫃屋道清」が双方の家を行き来するために架けた私設の橋が原型ながです。播磨屋宗徳元は播磨国飾磨の人で本姓は高島、通称、与十郎・九郎左衛門と言う。天正6年(1578)に長宗我部元親が讃岐出兵した際、軍用金と兵糧を用立てたことが縁で、土佐に招か...

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はりまや橋公園

[ 高知市はりまや町1丁目 ]平成10年(1998)に架けられた播磨屋橋の下にゃ人工水路が設置され、親水公園になっちょります。また丁度、はりまや橋の東西を結ぶ交差点地下にゃ、旧欄干や、はりまや橋の変遷等の展示スペースにも、なっちょりますよ。MapFan地図へ...

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お馬生家の井戸 - お馬・純真物語のヒロイン宅跡

[ 高知県高知市五台山 ]五台山・竹林寺の”純信”が、思いをかけた人”お馬さん”のために、「かんざし」を買うちゃったと言うロマンス話で有名な、ヒロイン「お馬さん」の生家じゃった場所に残る井戸ながです。今は、”お馬さん”とは一切関係のない一般の方の御宅で、当時の面影が偲ばれる物はないがですが、庭の奥まった一角に写真のような石碑と井戸が残されちょります。玄関で「写真を撮らせてもらえんろーか?」と声をかけ、邸内...

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須崎でのお馬さんの住居跡周辺 - 須崎小学校

[ 高知県須崎市東糺町 ]お馬さんは、安政3年(1856)安芸川以東の安田町の方に、追放をされちょった。そんで、真面目に働きよったけんど、しつこい純真が現れて、またまた騒ぎとなって二度目の追放を受けたがです。今度は、名護屋坂以西と言う事で、落ち着いた先は須崎の池ノ内と言う場所じゃったそうです。お馬神社(お馬堂) - 2度目の追放で須崎に送られる 2010.08.15ここでも、住み込みで百姓の手伝いをして、真面目働いたそ...

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純信生誕地 - よさこい節に歌われた純信さん

[ 高知県土佐市市野々 ]ここは、よさこい節に歌われた僧・純真の生誕地。朱色に塗られた橋の名は純信橋で、橋を渡った先にゃ「僧純信生誕地」の案内板がた立っちょります。純信は、文政2年(1819)、この近くの江渕要作の長男として生まれ、9歳で仏の道に入るため京で修行し、帰国後、五台山竹林寺の住職となったがです。お馬さんとの話は、その後の話し・・・・・。純信堂は、昭和35年(1960)に甥になる方が建てたもんで、橋の手前...

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はりまや橋のレプリカ - 明治41年から昭和4年まで架橋されちょった

[ 高知県高知市鷹匠町・ホテル三翠園庭内 ]この鋳鉄製の朱塗りの橋は、明治41年から昭和4年まで、架かっちょった「はりまや橋」のレプリカながです。大正末期から昭和の初期に、高知駅から南に抜ける新道の建設に伴い、架け替え工事で「はりまや橋」は撤去され、ホテル三翠園の庭園に保存されちょったが。平成10年(1998)に、現在の「はりまや橋公園」が完成したのに合わせて、本物の方は高知市に寄贈され、デンテツ・ターミ...

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お馬神社(お馬堂) - 2度目の追放で須崎に送られる

[ 高知県須崎市池ノ内 ]はりまや橋の、坊んさん・かんざしの歌でお馴染の、純信お馬さん。事件が起こったがは、安政2年じゃと言うき、坂本龍馬が1回目の江戸への剣術修行から戻んて来ちょった頃の事で、街中噂になっちょった2人の事も知っちょったろーと思うが。駆け落ちの末、讃岐は金比羅山、石段のそばにあった旅籠・高知屋で捕縛され、土佐に送り返されるがです。土佐で入牢しちょった場所が、山田町の番所(現・高知市は...

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はりまや橋 - 今に残る明治41年に架橋された鉄製の橋

[ 高知県高知市はりまや町 ]はりまや橋が何時架橋されたかは定かじゃないけんど、江戸時代始めの慶安元年(1648)以前じゃとされちょります。と言うのは、はりまや橋を架けた当事者の一人、播磨屋宗徳が亡くなっちゅうがが慶安元年(1648)じゃからです。播磨屋宗徳と言う人は、長宗我部元親の統治しよった時代にゃ瀬戸村(現・高知市瀬戸)に住んじょり、もう一人の櫃屋道清は浦戸城下に居った。山内一豊が土佐に入国し、高知城下を...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 6

[ 高知市帯屋町1丁目 ]現在のデパート「大丸」辺りまで、堀川の流れがあったようながです。現在は埋め尽くされて、当時を偲ぶすべは無いがですが、一番下の白黒写真はこの辺りから見た「堀川」と「はりまや橋」ながです。写真はJ.Jさんの「高知-観光 高知の面白いページ」より拝借しちょります。...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 5

はりまや橋西側の人口水路です。[ 高知市はりまや町1丁目 ]...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 4

現在の「はりまや橋」です。と言うても橋の名残をとどめたモニュメントのようなものですけんど・・・・・(^^ゞ人工的に的に造られたt水路の上に架かっちゅう観光用朱色の「はりまや橋」ながです。地下には「はりまや橋」の移り変わり等が写真等で展示されちゅうがですき、時間があったら覗いて観てや。[ 高知市はりまや町1丁目 ]...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 3

電車通りを横切るように「堀川」が流れちょったようで、北側には橋の遺構が残っちょります。「はりまや橋観光バスターミナル」建設で破壊されて、申し訳程度に「一部」が残っちょります。人工的に造り変えられた水路があるだけです。[ 高知市はりまや町1丁目 ]...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 2

この「はりまや橋観光バスターミナル」の道路部分が、昔の「堀川」ながです。上の写真の左側のタクシーの停車しちゅう辺りに、昔は「土佐橋」があったがです。今は、申し訳程度に「土佐橋」の名を刻んだ遺構がが残るのみです。因みに、下の地図、「カルポート」の辺りで北に延びた運河「新堀川」があるがですが、此処で「堀川」と「新堀川」は繋がっちょりますが、現在この「新堀川」も蓋をして暗渠にし道路を造っちよります。この...

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「はりまや橋」の下、堀川は流れちょった - 1

春ともなれば両岸に桜が彩りを添えるがです。この桜は、1970年頃・河川工事の際、地域住民が植えたとの事です。「カルポート」前の広場の下から暗渠になっちょって、数十メートル先からは埋められちゅうようながです。[ 高知市 ]観光客ががっかりする「はりまや橋」橋の下には、昔は「堀川」が流れちょったがです。高知市内には網の目のように流れよった運河があったがですが、1960年代に、製紙工場からの排水の垂れ流しによって...

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時代と共に変遷した「はりまや橋」-4代目

[ 4代目のはりまや橋 」 [ 観光用に改修された、はりまや橋 」 [ はりまや橋  高知/高知市はりまや橋 ] 全国から寄せられた「はりまや橋」に対するイメージ”を基に、「はりまや橋周辺の親水公園化事業」が始まり3代目は撤去され、1998年に現在の形の「はりまや橋公園」が完成したがです。新たな観光用の朱塗りの「はりまや橋」は、川じゃないけんど人口水路の上に架けられ、以前よりは観光客のイメージも良くなった様な...

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時代と共に変遷した「はりまや橋」-3代目

[ はりまや橋地下公園にある、保存されちゅう欄干 ] [ はりまや橋地下公園にある、当時の写真 ] [ はりまや橋  高知/高知市はりまや橋 ] 昭和33年には南国博覧会のため、朱色の欄干が架けられたがです。翌年、ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」 が大ヒットし、同名の映画が創られ「はりまや橋」が全国的に知られるようなったがです。1960年代に入って、製紙工場からの排水で、市街地河川の水質汚濁悪化し、...

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時代と共に変遷した「はりまや橋」-2代目

[ 明治時代の鋳鉄製のはりまや橋 ] [ はりまや橋地下公園にある、当時の写真 ] [ はりまや橋  高知/高知市はりまや橋 ] はりまや橋は現在の朱色の観光橋で4代目で、明治時代には、ちゃんと堀川は流れ「はりまや橋」が架かっちょりました。明治41年に、木製のはりまや橋(1代目)から鋳鉄製の橋(2代目)に架け替えられたようで、その後、昭和の初期頃に高知駅から道路建設に伴い、鋳鉄製の橋は撤去されたがです。写...

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