category: 幕末他藩 | 龍馬関連番外編  1/4

千葉さな子 - 叶わなかった若き日の恋慕を抱いて坂本龍馬室として眠る

[ 山梨県甲府市朝日5丁目・清運寺  ]甲府駅の北西約700m程の所に清運寺と言うお寺さんがあるがです。東京在住の頃は、何度か仕事で足を運んだ土地で、この周辺にも何度か立ち寄っったり駅周辺にも宿泊しちょりますが、実際にお寺さんを訪れたのは、ほんの数年前になります。此処に千葉佐那(千葉さな子、千葉佐那子)さんが眠っちょるのは知っちょりましたが、時間に追われついつい足が向く事がなく、土佐に戻んて来た以降、たまた...

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長寿院西軍墓地 2 - 故郷遠き白河に眠る土佐藩兵18名

[ 福島県白河市本町北裏30 ]■ 田中煌之進重行(迅衝隊一番隊士)土佐藩従士格。土佐郡小高坂村住(現・高知市)。明治元年6月12日白河湯本街道で戦死。25歳。田中煌之進 - 戊辰戦争、白河口の戦いで戦死 2011-10-15 ■ 黒岩兼之助光吉(迅衝隊十四番隊士)土佐藩。吾川郡長浜村の人(現・高知市)。明治元年6月12日白河湯本街道で負傷、15日死。29歳。■ 楠瀬六衛直樹(迅衝隊砲隊士)土佐藩小姓格。高知城下、北新町の人。明...

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長寿院西軍墓地 1 - 白河方面の戦いで亡くなった土佐藩兵18名が眠る

[ 福島県白河市本町北裏30  ]福島県白河駅の南口を出て、400m程東に行った所にあるヨークタウン白河横町店の手前を南に入った所に長寿院はあるがです。此処には戊辰戦争・白河方面での戦いで亡くなった西軍の墓所があり、土佐藩関係の戦没者18名が眠っちょります。慶応戊辰殉国者墳墓(西軍) この墳墓は慶応4年(1868)の戊辰戦争・白河方面における戦死者を祀ったもので、西軍各藩である長州藩(山口県)・土佐藩(高知県)・...

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会津若松西軍墓地 2 - 故郷遠き会津若松に眠る土佐藩兵49名

写真は西軍墓所入口正面に建つ、ひときわ大きい「官軍諸道軍監牧野茂敬墓」ながです。[ 福島県会津若松市大町  ]■ 牧野茂敬((迅衝隊軍監)牧野群馬茂敬は後の名で、元は小笠原唯八、名は茂郷。高知にある墓には「牧野群馬茂郷」と刻まれちょります。高知城下(現・高知市江ノ口地区)に、土佐藩士・小笠原弥八郎(馬廻格、250石)の嫡男として生まれよります。一緒に会津で亡くなった小笠原謙吉茂連(迅衝隊第三番隊長)は弟...

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会津若松西軍墓地 1 - 会津戦争で亡くなった土佐藩兵49名が眠る

[ 福島県会津若松市大町  ]会津若松の東明寺墓地に、戊辰戦争で戦った新政府軍の戦死者を埋葬した西軍墓地があるがです。此処にゃ、薩摩・長州・土佐藩等の会津戦で亡くなった150名が眠ちょりますが、その内の約1/3の49名が土佐藩兵ながです。会津戦では、当然会津藩の人々にも多くの犠牲を出しちょりますが、此処に眠るのは元・土佐勤王党員達が中心になった土佐藩主力部隊・迅衝隊の犠牲者が殆どで、遠く故郷を離れた地に今で...

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大江橋 - 橋名は神奈川県令・大江卓からで龍馬や慎太郎とも知り合い

[ 神奈川県横浜市中区 ]JR桜木町傍の大岡川に、大江橋と言う橋が架けられちょりますが、橋の名の由来は、当時の神奈川県令じゃった大江卓からきちょります。以前にも御紹介しょりますが、大江卓は維新後の名で元は斎原治一郎と言い、長崎に赴いた後に坂本龍馬や中岡慎太郎らと知り合い、中岡慎太郎の陸援隊にも参加した勤王党同志ながです。大江 卓 - 賤称廃止や娼妓解放に尽力した反骨の土佐人 2013-03-05初代の橋は木造橋で...

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晩年の勝邸通用門 - 石神井・三宝寺に移築

[ 東京都練馬区石神井台・三宝寺 ]三宝寺山門の傍に通用門(長屋門)と刻まれたプレートがあるがですが、元は勝海舟が明治5年(1872)から晩年を過ごした赤坂にあった屋敷の表門じゃったそうです。現在の姿は勝海舟が住んじょった頃より、その後の所有者によって手が加えられ改造されちゅうようです。勝安房(勝海舟)邸跡 - 晩年を過ごした場所 2013-05-04...

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岩神主一郎 - 土佐勤王党に134番目に加盟

[ 東京都文京区大塚・護国寺 ]天保11年(1840)に高岡郡佐川村(現・佐川町)に、土佐藩家老・深尾家家臣・古沢南洋の長男として生まれ、通称・応助、守一と言うがですが、本家の岩神氏を継ぎ岩神主一郎と称し、さらに曾祖父・井原家を再興して名乗った名が井原昂(いはら のぼる)ながです。因みに同郷の勤王の志士・井原應輔は、古沢南洋に教えを受けちょります。井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟 2013-09-30武市瑞山に剣...

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田中屋 - 明治7年から勝海舟の紹介でお龍さんが働きよった料亭

[ 神奈川県横浜市神奈川区台町 ]横浜駅の西側、昔神奈川台町と呼ばれた辺りの旧東海道沿いに料亭「田中屋」があり、店の看板にゃ「文久3年」と書かれちょります。この料亭「田中屋」さんのHPにゃ下記のように書かれちょります。海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の...

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千葉佐奈灸治院跡 - 龍馬の許嫁として生涯を閉じた場所

[ 東京都足立区千住仲町 ]足立区千住仲町の日光街道と墨堤通りの交差する辺りに、現在、「千葉佐那・千葉灸治院跡」と言う説明板が平成22年に設置されちょります。オンちゃんも北千住には約10年程住んじょった事があり、時々、京成本線の千住大橋で下車しこの前を何度か通った事があるがですが、当時は説明板がなかったき此処が千葉佐奈さんが住み、生涯を閉じた場所じゃったとは知らんかった。あえて説明は要らんかもしれんけん...

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斉藤一 - 「るろうに剣心」にも登場する新撰組三番隊隊長

[ 福島県会津若松市・阿弥陀寺 ]斉藤一は、妻の高木時尾の母方の姓・藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しちょります。NHK大河「八重の桜」では、妻の高木時尾役を「貫地谷しほり」さんが演じちょりましたねー。松平容保の仲人で一緒になり、此の地で夫婦一緒に眠っちょります。坂本龍馬とは直接の接点は判らんけんど、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺(近江屋事件)された事件の黒幕が「いろは丸沈没事件」で苦湯を飲まされた恨みを持...

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中島與一郎 - 戊辰戦争・ 母成峠の戦いで落命

[ 福島県猪苗代町字新町・西円寺. ]今年(2014)春の東京出張の折の事じゃけんど、3月22-23日の週末に1泊2日で昨年時間がなくて行けんかった場所を訪ねるため、再び会津を訪んねたがです。去年の会津若松は桜が綺麗じゃったけんど、僅か数週間違うだけで今年は寒かった。出発前都内のホテルで見た会津地方の天気予報は「雪」じゃったので、ある程度覚悟はしちょったけんど、郡山から磐越西線に乗換えて山の中に入って行くと、案の...

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旧岩崎邸庭園 - 「龍馬伝」で坂崎紫瀾が岩崎弥太郎に取材をする場所

[ 東京都台東区池之端 ]NHK大河「龍馬伝」の冒頭シーンを思いだいてや。明治15年(1882)に土佐(高知)の土陽新聞の記者・坂崎紫瀾が岩崎弥太郎に取材をするシーンから始まるがですが、そのシーンが撮影されたがが、旧岩崎邸庭園ながです。ここは明治29年(1896)に、岩崎家本邸として建てられちょりますが、岩崎弥太郎自身は明治18年(1885)に亡くなちょりますき、シーンの設定自体はフィクションながです。もとは越後高田藩榊原家...

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中島信行 - 坂本龍馬の亀山社中と海援隊で庶務を担当

[ 神奈川県中郡大磯町東小磯 ]神奈川県大磯町にある大運寺の本堂脇に、「長城 中島君 墓」と刻まれた大きな墓石が建っちょります。墓の主は「中島信行」と言い、長城は号ながです。坂本龍馬の亀山社中と海援隊で、庶務を担当しよった人物ながです。大磯と言う場所は、伊藤博文や山県有朋らと言った多くの新政府の要人が別荘を構えちょりましたが、中島信行も明治31年(1898)に別荘を築くがですが、翌年の明治32年(1899)病気で亡く...

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一瀬孫之進 - 土佐勤王党に186番目に加盟した一瀬源兵衛の父

[ 高知県高知市山手町・丹中山 ]一瀬孫之進は土佐藩の留守居組じゃったようで、その子が土佐勤王党に186番目に血盟加盟した一瀬源兵衛になり、血盟加盟土佐藩上士3名の中の一人という事になるが。文久2年(1862)10月、朝廷から山内容堂に国事周旋の命が下され上京するに当たって容堂を警護すべく結成された五十人組に参加し、一番組・伍長じゃった鎌田清次郎(坂本清次郎)の組に入っちょります。一瀬源兵衛の妻は郷士・島村源次...

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勝海舟 - 天地開闢 大日本大社廻之碑

[ 東京都品川区北品川・品川神社 ]品川神社の石段を上ると参道の右手に写真の石碑が建っちょります。石碑にゃ「天地開闢 大日本大社廻」・「神社佛閣 四國四拝」と刻まれちょり、「応需 勝安芳書」とある。勝安芳とは、勝海舟の事じゃねー。この石碑は明治26年に建てられちょりますが、由来は不明ながです。オンチャン、石碑の意味は分からんがですが「天地開闢」とは単純に日本神話の天地開闢の意味かな、とは思いますが・・・...

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土方楠左衛門墓 - 薩長同盟の立役者の一人

[ 東京都豊島区駒込・染井霊園 ]墓碑銘にゃ「秦山」とあるがは号で、維新後に土方久元と名を改めた土方楠左衛門のお墓ながです。黒岩直方の所でも、チックと触れたけんど、慶応元年(1865)土方楠左衛門は中岡慎太郎と状況視察に京に上った時、薩摩藩・吉井友実(維新後に吉井幸輔に改名)の屋敷で坂本龍馬と合い時勢を論じ、帰路、下関にて再び龍馬と合い中岡慎太郎と画策中じゃった薩長同盟の話をしちょります。その結果、坂本龍...

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服部東蔵の父の墓 - 服部東蔵は土佐勤王党に166番目に加盟

[ 高知県高知市山手町・丹中山高知市歴史墓地公園 ]高知市歴史墓地公園・丹中山の坂本家墓所の隣に、服部要五郎と言う人の墓があり、墓碑にゃ安政四年(1857)行年27歳と刻まれちょりますが、随分と早く亡くなられちょります。歴史写真家・前田秀徳氏のお話では、土佐勤王党に166番目に血盟した服部東蔵の父になる人じゃそうです。服部東蔵と服部要五郎に付いては、よう分からんがですが、実は服部東蔵は土佐勤王党に177番目に血盟...

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島本仲道 - 土佐勤王党に16番目に加盟

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]島本仲道(審次郎)は天保4年(1833)土佐郡潮江村蛭ヶ谷(現・高知市)の藩士・島本卓次の二男として生まれ、通称・審次郎、維新後に仲道と称し、号は北州。吉村虎太郎や中岡慎太郎らと共に間崎哲馬に学問を学び、また大井漁隠(おおい ぎょいん)にも学んじょります。安政5年(1858)江戸に出て安井息軒に入門し、長州藩士・久坂玄瑞らと交流するがです。土佐に戻んて来て土佐勤王党に16番目に血盟...

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坂本龍馬の妻・お龍終焉の地 - 晩年は寂しい生涯を送る

[ 神奈川県横須賀市米が浜通 ]京浜急行・横須賀中央駅の東口を出て、米が浜通り入口交差点を右折して約400m程行くと、右側に「おりょう会館(葬祭場)」がある。その車道側に「坂本龍馬の妻・お龍終焉の地」の碑が建っちょりますが、脇にある電気会社の大きな地上機器(変圧器)が目立ちすぎて、気がつく人は少ないのじゃないろーか。この碑の近くで、坂本龍馬の妻・お龍さんが晩年寂しい生涯を送り、66歳で亡くなるまで過ごした...

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陸奥宗光の旧別邸 - 根岸の里に残る明治時代の洋館

[ 東京都台東区根岸 ]坂本龍馬の海援隊(前・亀山社中)に加わり、龍馬とは盟友でもある陸奥宗光の別邸の一つながです。陸奥宗光の別邸と言うたら北区西ヶ原に残る旧古河庭園が有名じゃけんど、JR山手線鶯谷駅から約5分ほどのちょっと横丁に入った場所に、現在は西宮邸(個人)となっちょる木造洋館があるが。陸奥宗光が此処・根岸の里に住み始めたがは明治16年(1883)頃じゃそうで、明治20年(1887)頃に三井家から献上された洋館...

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高知藩留学候補生墓 - イギリス留学前、事件を起こし藩命で自刃

[ 東京都港区芝大門・安養院 ]以前、坂本龍馬の海援隊で文官として活躍した長岡健吉の墓を御紹介した安養院の奥の方の片隅に、ひっそりと4基の土佐人の墓がある。此処に眠る4人の土佐人たちは、これも前々回の記事で御紹介しちょります真辺正精(真辺戒作)らーが、明治3年(1870)にイギリス留学した事と間接的ながら、関わりのある人らーながです。と言うのは、当初、真辺正精(真辺戒作)と、此処に眠る写真右の墓石から、谷神...

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眞邊戒作墓 - 京都で中岡慎太郎と会い時勢を話す

[ 東京都台東区谷中・谷中霊園 ]真辺正精(まなべ まさよし)は嘉永元年(1848)に生まれ、通称は厳太郎、後の名を真辺戒作と言うがです。幼少より、今風に言うたらイケメンやったそうです。安政5年(1858)山内容堂に召し出され、11歳で御付小姓を仰せ付けられ、文久3年(1861)亡父の跡目を継ぎ、石高68石を相続し、真辺家8代目当主となっちょります。慶応元年(1865)乾退助(板垣退助)に御供して江戸に出、藩命で学問を学び、慶応3...

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斎藤弥九郎 - 幕末三大流派の一つ神道無念流の剣豪

[ 東京都渋谷区代々木・福泉寺 ]斎藤弥九郎は、神道無念流の剣術家で、「練兵館」の創立者ながです。この当時、幕末の江戸には三大道場があり北辰一刀流の千葉周作、鏡新明智流の桃井春蔵と共に三傑と称された程の人ながです。北辰一刀流の千葉周作の弟になる千葉定吉道場にゃ坂本龍馬、鏡新明智流の桃井春蔵道場には武市半平太(瑞山)、斎藤弥九郎の元にゃ後の木戸孝允(桂小五郎)と、歴史に名を残した人物がおったがです。土...

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中浜万次郎(ジョン万次郎) - 河田小龍を通して龍馬も影響を受ける

[ 東京都豊島区南池袋・雑司ヶ谷霊園 ]坂本龍馬にも、河田小龍を通して、中浜万次郎(ジョン万次郎)の見聞きした西洋知識や民主主義の考え方等が受け継がれ、亀山社中と言う組織をつくり海の外にも羽ばたこうと言う思いが広がって行ったがでしょうねー。 文政10年(1827)に、土佐国中濱村(現・土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男に生まれ、父は万次郎が8歳の頃に死去し、病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った...

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三浦休太郎 - いろは丸沈没事件で坂本龍馬に恨みを持つ

[ 東京都豊島区西巣鴨・妙行寺 ]慶応3年(1876)11月15日、京都近江屋で、海援隊隊長・坂本龍馬と陸援隊隊長・中岡慎太郎と言う土佐の2人の巨頭が暗殺された。「龍馬暗殺」には諸説あり、どれが本当なのか未だに謎ながですが、その説の一つに「いろは丸沈没事件」に絡む紀州藩説がある。紀州藩公用人・三浦休太郎は紀州藩の代表として坂本龍馬と交渉するがですが8万3000両と言う賠償金を支払わされた事で、坂本龍馬に恨みを持ちょ...

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沢辺琢磨 - 「八重の桜」山本八重の夫となる新島襄とも接点がある

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]墓碑に刻まれちゅう「日本基督正教會長司祭 パエル澤邊琢磨師之墓」こそ、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨(元・山本琢磨)の墓です。江戸に居た時、酒を飲んでの帰り道、拾った金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と時計屋に売った事で窮地に追い込まれ、親戚になる坂本龍馬と武市瑞山(半平太)の助けを得て江戸を脱出し、蝦夷の箱館(現・函館市)に渡るがです。箱館では箱館神明宮(現・山上大神...

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佐々木高行 - 坂本龍馬を支えた一人

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]板垣退助・後藤象二郎と共に土佐三伯の一人。また土佐藩の厳しい身分制度の中で、郷士に寛大じゃった一人でもある。坂本龍馬との親交も深く、手紙などから佐々木高行を如何に信頼しちょったかも伺えるがです。海援隊士への援助や、慶応3年(1867)後藤象二郎と共に薩土盟約の吟味および大政奉還の建白について協議などもしちょります。慶応3年(1867)11月15日京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺...

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国澤新九郎 - 土佐藩船「夕顔丸」の船長で坂本龍馬も乗船

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]国澤新九郎は、戊辰の役の函館戦争の時、夕顔丸の船将として活躍しちょります。慶応3年(1867)のイギリス軍艦イカラス号水夫殺害事件の際、須崎湾の洋上で後藤象二郎とイギリス公使の談判の舞台になった時も乗船しちょったし、慶応3年(1867)坂本龍馬が後藤象二郎と長崎から兵庫に向けて乗船した際にしたためた「船中八策」をまとめた時の船が「夕顔丸」ながですき。...

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西郷頼母邸跡 - 函館戦争の時、長子・吉十郎を沢辺琢磨に託す

[ 福島県会津若松市追手町 ]NHK大河「八重の桜」で西田敏行さんが演じちょる会津藩家老・西郷頼母邸跡ながです。坂本龍馬とは接点はないがですが、龍馬の親族にちっくと関わりがあるがですき、あえて記載しちょります。西郷頼母と言う人は文政13年(1830)に生まれ、万延元年(1860)家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕え、会津藩の家老を務めちょります。文久2年(1862)幕府から京都守護職就任を要請された時、政局に巻き込まれ...

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吉井幸蔵・勇 - 父・ 吉井幸蔵は坂本龍馬とお龍の霧島旅行に同行

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]吉井幸蔵は薩摩藩士・吉井友実の長男で、 当時10歳じゃった幸蔵は、坂本龍馬がお龍を伴っての霧島の高千穂峰に登った時、一緒に同行したと言われちょる人じゃねー。 その息子・吉井勇は歌人、脚本家として活躍した人で、一時期、土佐で隠棲生活を送っちょります。因みに祖父・吉井友実は、寺田屋襲撃によって負傷した坂本龍馬を京都の薩摩藩邸へ護衛して送り届けたり、坂本龍馬が怪我の静養を兼ね...

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菅野覚兵衛・起美 - 妻は「お龍」さんの妹ですき、龍馬とは義理の兄弟

[ 東京都港区南麻布四丁目・光林寺 ]菅野覚兵衛は天保13年(1842)に安芸郡和食村(現・芸西村和食)の庄屋・千屋民五郎の三男に生まれ、初め千屋寅之助と言い、千頭義郎や山本謙吉の変名を使い、のちに菅野覚兵衛と言うがです。病弱な兄に代わり庄屋業を努めよったけんど、国事を憂い従兄弟の千屋菊次郎・千屋金策と共に34番目に土佐勤王党に加盟しちょります。文久2年(1862)にゃ、山内容堂を警護するための五十人組に参加し上京...

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板垣退助墓所 - 品川神社

[ 東京都品川区北品川三丁目 ]墓所は、品川神社の奥にあるがですが、神社に墓所とは変じゃと思うたら、最初は板垣退助の遺言で東海寺塔頭・高源院に葬られたがじゃそうですが、関東大震災の後、高源院が世田谷区に移転した時に、墓だけが現在の地に残されたがじゃそうです。その高源院のあった場所は、城南中学校となっちょり、墓所にゃ神社境内を迂回してしか入ることが出来んようになったがじゃとか・・・。 佐藤栄作の筆によ...

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勝安房(勝海舟)邸跡 - 晩年を過ごした場所

[ 東京都港区赤坂6丁目 ]この地は、文久2年(1862)に、坂本龍馬が訪れた勝海舟邸じゃないが。勝海舟邸跡 - 坂本龍馬が勝海舟に影響を受けた場所 2013-01-13明治維新後、勝海舟は一度、静岡の方に移り住むがですが、明治5年(1872)に再びこの赤坂氷川町に転居し、49歳から亡くなる76歳までの晩年を過ごした場所ながです。 説明板にもあるように、『氷川清和』や『氷川の音づれ』なども此処で書かれたようです。また、維新後自由...

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小畑美稲(孫次郎) - 土佐勤王党に145番目に加盟 

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]小畑美稲(よしね・うましね)は文政12年、土佐郡一宮村(現・高知市)の郷士・小畑美穗(よしほ)の二男として生まれ、名を孫次郎綽祐、のち美稲と言う。加盟した時期は定かじゃないけんど、土佐勤王党にゃ145番目に血盟同志となっちょり、土佐勤王党に加担しちょった奥宮慥斎に陽明学を学び、文久2年(1862)上洛して三条家御作配役となり同志と共に国事に奔走しちょります。京に上洛前に起こった...

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松平春嶽 - 坂本龍馬に勝海舟への紹介状を書く

[ 東京都品川区南品川五丁目・海晏寺 ]檜垣清治(直枝)の墓所のある海晏寺にゃ、名君と言われた越前福井藩主・松平春嶽や家臣の由利公正・中根雪江の墓があるがです。松平春嶽と坂本龍馬は関わりがあり、文久2年(1862)に間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職じゃった前・福井藩主・松平春嶽に拝謁し、幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受け門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となっちょります。また、...

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檜垣清治(直枝) -  土佐勤王党には39番目に加盟

[ 東京都品川区南品川五丁目・海晏寺 ]檜垣清治は天保10年(1839)土佐藩士・檜垣清右衛門の子として生まれ、名は正路、後に直枝と名乗っちょります。坂本龍馬と同じ日根野弁治の日根野道場で剣術を学び、その後、武市瑞山(半平太)にも師事しちょります。文久元年(1861)4月住吉陣営に在勤しちょった時、望月清平に誘われ坂本龍馬と会うたとい。その年、武市半平太が土佐勤王党を結党すると39番目に土佐勤王党血盟同志に加盟しち...

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西郷隆盛・勝海舟会見之地碑 - 江戸城無血開城

[ 東京都港区芝5丁目 ]慶応4年(1868)3月13日に駿府を立った西郷隆盛が池上本門寺の官軍本陣に入ると、到着を待っちょった勝海舟は同寺に出かけ同寺内の松涛園で西郷と一回目の交渉に入り、14代将軍徳川家茂正室・静寛院宮(和宮)の処遇問題と、徳川慶喜の降伏条件を話合うがです。そして翌日、二回目の交渉が行われるがですが、その会談の場所が三田の薩摩藩蔵屋敷じゃったがです。幕府側は勝海舟や大久保一翁・山岡鉄太郎(鉄...

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