南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

辰巳屋伊藤傳右衛門邸跡付近 - 伊能忠敬が高知城下で三日間宿泊

伊藤家碑文

[ 高知県高知市はりまや橋1丁目 ]


はじめに
暫く治まっていました、長期介護による精神的ウツにドット襲われ、体調不良でブログの更新が滞っていましたが、気分的にも治まってきましたので、状況をみつつ更新を再開いたします。




2ヶ月程前の事になりますが、伊能忠敬研究会の方から「伊藤家は伊能忠敬一行の宿所ではありませんか?」と言うコメントをいただきました。

伊藤家が辰巳屋の屋号を使用していたのは記憶に在りましたが、コメント本文にあった辰巳屋伊藤伝右衛門と言う名が記憶になかったものですので「分家ではなかったかと思われますが、詳しい事はわかりません。」と、御返答した次第でした。

当方が、以前、伊藤家の墓所を訪れたのは、土佐人として長州の忠勇隊に参加し禁門の変で亡くなった伊藤甲之助のお墓探しが発端でした。

伊能忠敬に関しては、土佐には然程、痕跡が残っていないのと、正直あまり関心がなかったので、スルーしていて伊藤家(辰巳屋)との関わりは知りませんでした。

伊藤甲之助 - 土佐勤王党に68番目に加盟 2011.07.31

ただ、以前、奥宮正樹の記事で、下記のようには伊能忠敬の事に触れています。

この人は、藩の下役で文化5年に(1808)に幕府測量使・伊能忠敬が土佐に来た時、普請方・宮崎岳助と共に甲浦(現・安芸郡東洋町)から伊予・宇和島に出るまで、約1ヶ月余り随行して測量の世話をした。

「奥宮正樹日記」には、この時の藩史、測量隊がどんなに映じたか等を、書き残している。

『皆山集』

【 参考・引用 】  『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会


奥宮正樹 - 土佐での伊能忠敬の測量に随行 2014.08.13

コメントの返信後、伊藤家の墓所に碑文があった事を思い出し、再度墓所訪ねて碑文(最初の写真)を確認して、家系図にしてみました。

伊藤家

系図にして見ると、土佐伊藤家三代目・伊藤義強の三男が、中伊藤・伊藤傳右衛門温強(辰巳屋傳右衛門)でした。

コメントを戴いた通りでした。

辰巳屋傳右衛門

写真は、「伊藤傳右衛門温強(辰巳屋傳右衛門)」さんのお墓です。

次に、伊能忠敬が宿泊した旅籠屋・辰巳伝三郎方も、奥宮正樹の記事でも下記のように書きましたので、古地図を参考に確認してみました。

伊能忠敬が土佐に来たがは文化5年(1808)第6次測量の時で、年齢は64歳じゃったそうながです。

高知城下では、現・はりまや町の土佐橋北詰(元・土佐銀行のあった辺り)にあつた旅籠屋・辰巳伝三郎方で三日間滞在したそうながです。.


奥宮正樹 - 土佐での伊能忠敬の測量に随行 2014.08.13

辰巳屋傳右衛門

【 参考にした地図 】
『改訂版 高知城下町読本』  高知市・観光課 (平成24年)
『描かれた高知市 高知市史 絵図地図編』 高知市 (平成24年)


上記と、当方の持っている昭和の時代に発行されていた高知市地図などを参考にして、現在地を推測すると分家・伊藤傳右衛門温強(辰巳屋傳右衛門)、即ち、伊能忠敬が宿泊したと言う「旅籠屋・辰巳伝三郎方」は、上の地図に記したように、現・NTT西日本高知東ビル周辺になりました。

辰巳屋傳右衛門邸附近

写真は、電車通り南から見た、現・NTT西日本高知東ビルです。

この周辺に、「史跡 伊能忠敬宿泊地周辺」とか、何ぞ説明板でも建てればエエにねー・・・・・。

因みに、墓碑には文化八辛未年閏二月廿日没(1811)とあり、伊能忠敬が来高した3年後に49歳で亡くなっていました。


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原荘九郎幸綱 - 戊辰戦争・折衝隊・会津若松で戦死

原荘九郎幸綱(高知市)

[ 高知県高知市薊野北町  ]


原荘九郎幸綱は、高知城下・南新町(現・高知市)の人で、戊辰戦争・東征には土佐藩折衝隊の徒士として従軍ちょります。

原荘九郎幸綱(高知市)

原荘九郎幸綱(高知市)

明治元年戊辰七月従官軍赴越前米
澤城総陥又向若松城奮戦九月十七日
中丸而歿時年十有九


戊辰戦争には、明治元年七月に官軍として赴き、越前米沢藩が官軍に恭順した後、会津若松城攻めに向かい奮戦するも、十九歳で戦死しちょります。

因みに米沢藩が官軍に恭順したのは、東山道先鋒総督府の中心だった土佐藩・迅衝隊の谷干城・片岡健吉・伴権太夫らの連名で書かれた米沢藩に恭順を薦める内容の書状が、土佐藩主・山内豊資から米沢藩主・上杉茂憲の正室となっていた三女・貞姫に届けられた事で、一気に米沢藩の藩論が恭順へとまとまり、「朝敵」の汚名をそそぐことになったそうです。

原荘九郎幸綱(高知市)

本墓は、現・会津若松市の東明寺の西軍墓地に埋葬されちょりますが、土佐にある墓は行った時は。竹藪の中でポツンと眠っていました。

会津若松西軍墓地 2 - 故郷遠き会津若松に眠る土佐藩兵49名 2015-10-26  



[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!

  



寺尾酒造跡 - 寺尾家祖は長宗我部元親の弟・香宗我部親泰に仕える

寺尾酒造跡(香南市赤岡町)

[ 高知県香南市赤岡町 ]


赤岡町の赤岡病院傍にある横矢食品さんの壁際に、寺尾酒造跡の説明板が建っちょります。

寺尾酒造跡と「豊能梅」

寺尾酒造の祖は穴喰で香宗我部安芸守親泰に仕えている。
家系では、安永年間、初代当主・善兵衛から始まり、八代目梅太郎に至り、明治三十四年第三代名誉庁長を務め、赤岡銀行設立、自由民権運動にも深い関心を示した。
梅太郎の誕生祝いの商標が「豊能梅」。
大正九年十二月五日没。
現・高木酒造の銘柄になる。

【 参考・引用 】 説明板より


寺尾酒造の祖が仕えた香宗我部親泰とは、天文3年(1543)に長宗我部国親の三男として生まれ、弘治4年(1558)香宗我部親秀の養子となり、永禄12年(1569)に安芸国虎が滅亡した後、安芸城主となっちょります。

兄・長宗我部元親の阿波平定にも尽力し、その後の四国統一にも尽力しちょりますが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐では敗退しちょります。

因みに、説明板に「現・高木酒造の銘柄になる。」とあるのは、何でも大正6年(1917)に寺尾酒造は倒産したようで、その後、高木酒造さんが銘酒「豊能梅」の商標と杜氏を一緒に買い取り、現在に酒造りが続いちょるそうです。


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