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南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

最御崎寺 - 足利尊氏が南北朝騒乱の戦没者菩提として土佐の安国寺に定める

最御崎寺(室戸市室戸岬町)

[ 高知県室戸市室戸岬町 ]


室戸岬の南端の室戸岬灯台近くにある四国八十八箇所霊場・第二十四番札所の最御崎寺(ほつみさきじ)。

徳島から始まって、高知県で最初の札所になるのが、此処、最御崎寺ながで、寺の名は「火(ほ)つ岬=火の岬の意」じゃそうです。

最御崎寺が開かれたのは大同2年(807)じゃそうですが、現在の場所に移ったのはそれから約200年後の寛徳年間(1044 - 1055)じゃそうです。

今回は、暦応4年(1341)に、足利尊氏によって土佐の安国寺とされたというお話です。

最御崎寺(室戸市室戸岬町)

安国寺ちゅうがは、南朝・興国6年=北朝・貞和元年(1345)に、北朝初代・光厳院の院旨を得て、足利尊氏が南北朝騒乱で亡くなった南朝の第88代・後醍醐天皇や皇子達を含め、名和長年・結城親光・千種忠顕・北畠顕家・新田義貞・楠木正成・菊池武敏を初め多くの宮方(南朝)や、北朝にも組し亡くなった戦没者の菩提を弔うために、国ごとに一寺を建てたがです。

新造営もあれば、既存の寺院を安国寺と定めたようで、土佐の場合は、最御崎寺が安国寺と定められたそうながです。

このブログでも、土佐南北朝の記事も載せちょりますように、全国に広がった南北朝騒乱は、土佐の地でも南北両派に分かれた豪族たちが激戦を繰り広げたがです。

吉野(南北)朝廷時代古戦場跡 2009.08.21

最御崎寺(室戸市室戸岬町)

建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。

また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

【 参考・引用 】  南北朝時代 (日本)


この安国寺が建てられる切っ掛けは、臨済宗の夢窓疎石の勧めによるものじゃそうですが、室町幕府(足利幕府)の滅亡と共に、安国寺も衰退し廃寺になった寺もあるとか・・・・・。

吸江庵跡 - 坂本龍馬が土佐藩とライフル千丁の交渉を行った場所 2010.10.31
絶海和尚座禅の岩 - 同郷の義堂周信と共に「五山文学の双璧」の一人 2013.12.25

因みに、第15代将軍・足利義昭の時に、織田信長によって京都を追われた時点で室町幕府は滅亡したとされちょります。


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大津天竺城址 - 城主は土佐守護・細川氏一族、天竺右近花氏

大津天竺城址(高知市大津)

[ 高知県高知市大津 ]


写真は、とさでん交通御免線の清和学園前電停の直ぐ西側にある、大津天竺城址の石碑と登り口ながです。

大津天竺城址は、直ぐ北を東西に流れる舟入川の南面の丘陵に築かれちょります。

大津天竺城址(高知市大津)

大津天竺城址

足利の世、土佐の守護代細川氏の一族、天竺右近花氏(てんじくうこんはなうじ)が居城したところで天竺城と呼ばれtあ。
応仁の乱で細川氏の後だてを失いその姿を史上から没し去るが落城については諸説があり詳かでない。
山上に古城八幡宮がある。

【 参考・引用 】  説明板より


大津天竺城址(高知市大津)

真っ直ぐ伸びる石段が、二の丸まで続いちょります。

大津城址

大津の関の東の山上にある。
土電一条橋停西南の山である。
四国守護代細川天竺禅門のいたところ。
俗に天竺城という。
彼は正平十九年(1349)一月二十七日伊予の湯月山で戦死した。
文明三年(1471)四月城主天竺孫四朗は細川勝元に従軍して丹波を攻め山名宗全の将と戦って死んだ。
文明十年(1478)八月三日高岡郡半山(葉山)の領主、津野之高が細川氏の勢力が弱ったのにつけこんで、大津城を攻め天竺花氏を破った。
花氏は長男兵部少輔を京都の方ににげさせ自分は戦死した。
これで天竺氏は滅亡した。
天正二年(1574)二月長宗我部元親は一条兼定を豊後(大分)に追い、その子の内政を大津城に迎え、大津御所とよんだ。
天正八年(1580)波川玄蓄が元親にそむいた時、内政もこれに加わったので、内政を伊予に追い後に毒殺したので土佐一条氏は亡んでしまった。
今も城下に一条橋がある。
なお二の丸には古城八幡宮がある。
祭神は応神天皇で城主天竺氏が祭ったものである。

【 参考・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿・著 昭和44年 高知市観光協会発行


大津天竺城址(高知市大津)

大津城

高天ヶ原(たかまがはら)から北に延び、船入川の南側にある標高約70mの山にあった平山城。
北方に岡豊城跡を望み、西は田畑を隔てて岩崎山となっている。
天竺(てんじく)城とも称される。
『南路志』は
「天竺城ハ的ヵ池とて五十間四方の泉 有、城の東北の麓を東より西へ流深き事量なし、西ニ岩崎とて入海也、塩屋崎津の崎岩崎とて三つの崎の其一ッ也。
(中略)西南ハ山伝に続きたれども前も後も海なれば、西北南の方よりハ船ならで行かふ道なし、城の東南は山重て道細く人馬のかけ引自由ならず、東北のみ平地にて草原篠原鏡野まで続きたり」、
と記す。
城主は天竺氏と伝えるが、その系譜は諸説ある。
貞治三年(1364)細川天竺禅門が伊予国の湯月山で戦死した(予章記)というが、『土佐州郡志』はこの細川天竺禅門を大津城主天竺孫十郎の祖とし、『土佐国古城略史』はそれを否定して細川肥後守の子とする。
また『土佐遺語』は京都西山の人で天竺右近花氏が土佐国に来て大津城主になったとする。
『編年記事略』に「文明十年八月三日、津野備前守藤原之高長岡郡大津城ヲ攻テ是ヲ抜ク、城主天竺孫八郎花氏力戦シテ死ス」とあり、津野氏に滅ぼされているが、南麓の関に「津野陣」の名が残り、天正16年(1588)の大津郷地検帳にも「角陣」の小字がみえ、津野氏の大津城攻撃の拠点であったといわれる。
津野氏は天文15年(1546)に中村の一条氏に敗れるまでこの地を維持したと伝える。
一条氏は番将に大津城を守らせたが、同16年頃長宗我部国親の攻撃を受けて敗れ、大津城は国親の城となった(編年記事略)。
なお『土佐物語』は天竺花氏を滅ぼしたのは国親としている。
天正2年長宗我部元親は土佐を追われた一条兼定の子内政を大津城に迎え、娘をめとらせた。
これによって大津城は「大津御所」とよばれるようになった(土佐物語など)。
同8年、元親の妹婿で吾川郡波川城(現・いの町)の城主波川玄蓄が元親に謀反を企て、内政はそれに荷担した。
元親は内政を詰問し、また一条家を再興すべきことを諭したが、内政は伊予国の法花津播磨守を頼って浦戸より船出したという。
大津城を出るに際し内政は庭の藤に「植置きし庭の藤が枝心あらば此春ばかり吹くなにほふな」と詠み、その年、藤は一花もつけず皆不思議がったという(南路志)。
天正16年の大津郷地検帳には本丸・堀の淵・弓場・東木戸・二ノ塀・三ノ塀・東馬場・西木戸などがみえる。
現在も小字名として北馬場・西木戸・本ノ丸・二ノ丸などが残り、また頂上に本丸跡(東西二五メートル、南北九メートル)、その東に空堀、さらに東に城郭跡(東西五〇メートル・南北二五メートル)がわずかに残り、往時をしのばせる。
二ノ丸には天竺氏が祀ったと伝える古城八幡宮が鎮座する。
なお『土佐州郡志』は当地に紀貫之が居したとするが、確証はない。

【 参考・引用 】  『高知県の地名 日本歴史地名大系40』 平凡社・刊


大津天竺城址(高知市大津)

写真は、東から見た大津天竺城址のある丘陵ながです。


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へんろ標柱 - 禅師峰寺から西約1kmに建つ角柱の標柱

へんろ標柱(南国市十市)

[ 高知県南国市十市丸山 ]


時代的にゃ、近年に建てられちゅう標柱じゃと思われます。

へんろ道
両方向に一本指差し
三十三番 興福寺
浜田きか建
三十二番 峯寺


三十二番 峯寺とは八葉山 求聞持院 禅師峰寺の事で、三十三番 興福寺は雪蹊寺の事で、正式にゃ高福山 高福院 雪蹊寺と言うがです。

唯、雪蹊寺の事を興福寺と言うのを聞いた事がないけんど、考えられるのは、元々、空海(弘法大師)が開基した時は真言宗の少林山 高福寺じゃった言いますき、この事から古い呼び名を興福寺=高福寺(読みは同じ当て字かと・・・)と記したがかと・・・・。

因みに、真言宗の少林山 高福寺が、天正16年(1588)頃は慶雲寺となるが一時廃寺となっていたのを、天正年間(1573 - 1593)に長宗我部元親によって復興し臨済宗妙心寺派の寺となったそうで、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称したと言う。



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