南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

若宮八幡宮 - 源頼朝が祖父・源為義の冥福と源氏の家運長久を願い創建

若宮八幡宮(高知市長浜)

[ 高知県高知市長浜 ]


若宮八幡宮は全国にあるがですが、宇佐神宮(現・大分県宇佐市)・石清水八幡宮(現・京都府八幡市)・鶴岡八幡宮(現・神奈川県鎌倉市)等の若宮を勧請した、源氏に始まり武家全体の守護神たる八幡宮で八幡神・応神天皇が祀られちょる所が多いがです。

若宮八幡宮(高知市長浜)

此処は、土佐の戦国時代の永禄3年(1560)長宗我部元親が本山氏の支城・長浜城を攻略した際、馬場先に陣を構え初陣の地でもあった事や、その後、ここが出陣祈願の社と定められた事等から、長宗我部元親ファンの聖地の一つで、境内にゃ長宗我部氏の家紋・七つ酢漿草を染め抜いた幟旗が立ち並んじょります。

写真の鳥居の脇に「鳥居のいわれ」の説明板がある。

若宮八幡宮(高知市長浜)

鳥居のいわれ

長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定む。
天正十四年秋、豊臣秀吉軍の先鋒隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久を祈りいざ出陣という折りも折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。
衆人これを不吉となし、出陣を見合す形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。
果せるかな豊後戸次川にて島津軍と戦うも惨敗し嫡子信親公以下七百余人の将兵は異郷に討ち死にす。
帰郷後、元親公はこの鳥居を不祥の鳥居とし海上遥かに流しやる。
爾来二百ハ十年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、鳥居の根石の自然に浮きだしたことから衆人これを神意となし、再建す。
時に明治三年三月のことなり。
更にその後昭和十一年一月建て替え、昭和五十五年十月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートに変わり今に至る。

【 参考・引用 】  説明板より


若宮八幡宮(高知市長浜)

社紋は「まり巴」

御祭神

誉田別命 (応神天皇)
息長帯比売命 (神功皇后)
宗像三女神 (市杵島姫命、湍津姫命、田心姫命)
高靇神 - 相殿に祭祀


神社の由緒にゃ、平氏を滅ぼし鎌倉幕府の基礎を固めた源頼朝が、文治元年(1185)12月30日に、、保元の乱で後白河天皇方の平清盛らに敗れた祖父・源為義の冥福と、源氏の家運長久を願って京都六條の源為義邸跡にあった六條左女牛若宮に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、ここに新たに六條若宮八幡宮を御創建したそうです。

その際に、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納し神地鎮護の神として創建されたのが若宮八幡宮じゃとある。

因みに、あじさいで有名な春野町の六條八幡宮もその一つで京都六條左女牛八幡宮から産土神として御分霊した神社ながです。

六條八幡宮 - 武士の守護神八幡様を祀り紫陽花神社として知られちゅう 20141.06.13

若宮八幡宮(高知市長浜)

参道脇の鎮守の森公園にゃ、没後400年記念に建てられた長宗我部元親初陣の像が建てられちょります。



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嶺南社香長学校跡 - 元・土佐勤王党の池知退蔵・大石円 ・森新太郎らが創る

嶺南社跡(南国市立田)

[ 高知県南国市立田 ]


土佐くろしお鉄道 ごめん・なはり線の立田駅より線路高架下を西に500m程行った北側の農道脇に、「嶺南社香長学校跡」の碑が建っちょります。

板垣退助らが組織した自由民権運動の中心的政治結社・立志社に対して、香美郡(現・香南市)及び長岡郡(現・南国市)の元・土佐勤王党じゃった池知退蔵、大石円(大石弥太郎) ・森新太郎(森助太郎)らが保守派の政治結社・嶺南社を設立しちょります。

池知退蔵 - 土佐勤王党に178番目に加盟 2017.07.23
大石弥太郎 - 武市瑞山らの赦免を同志と共に藩庁に歎願するも叶わず 2016.07.13
森助太郎為政 - 土佐勤王党に158番目に加盟 2016.07.21

そして、青年達の教育機関として創ったのが香長学舎じゃったがで、後に香長学校になっちょりますが、開校後僅か10年程後の明治21年に閉校になっちょります。

方針が保守教育じゃったき、京都の学習院に職を奉じ孝明天皇の儒官じゃった中沼了三や、明治初期の高知県議会議長を務めた教育者で反民権派じゃった弘田正郎も教壇に立ったという。

弘田正郎は現・安芸市出身の人で、高知城下で陽明学を儒学者・奥宮慥斎に学び、大川筋(現・高知市)に五松学舎を開き、その子弟の一人には、世界に誇る植物学者になった牧野富太郎博士がおるがです。

奥宮慥斎 - 門人たちに尊王の大義を鼓吹する 2012.02.29
牧野富太郎誕生地碑 - 世界的な植物学者 2011.11.10

因みに、童謡「鯉のぼり」・「浜千鳥」・「叱られて」・「雀の学校」「春よこい」・「靴が鳴る」等の多く曲を手掛けた安芸市出身の作曲家・弘田龍太郎は長男になる。


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米森玄蕃元高 - 長宗我部元親に降伏せず、ただ一人迎え討ち激戦の末討死

米森玄蕃戦死之跡(佐川町西組)

[ 高知県高岡郡佐川町西組 ]


今回は、以前御紹介した斗賀野城 (二ノ部城)の城主じゃった米森玄蕃元高です。

斗賀野城址 (二ノ部城址) - 蓮池城主・大平氏家臣・田原彦右衛門年為が代官に 2017.06.27

米森玄蕃戦死之跡

(前略)
長宗我部元親起リテ武威振ヒ
土佐併合呑ノ勢ヲ(のみ込む勢いを)以テ
佐川城主ヲ刃ニ釁(ちぬ)ラズシテ降シ
潮ノ如ク
二部城ニ迫リ来レリ時ニ
米森玄蕃孤城無援ナリシモ
胸守ニ堅ク決スル所アリ
自ラ城ヲ出デテ殺到スル敵中ニ入リ
奮戦大イニ努メシガ
如何セン衆寡敵セズ
竟(つい)ニ
千古ノ恨ミヲ呑ミテ
可惜城外ノ露ト消エタリ
時ニ元亀元年十一月ニシテ
家臣亦(また)皆殉節ノ血ヲ注ギテ殪(たお)レシハ
如何ニ悲壮ナリシカ
(後略)
昭和八年十一月
斗賀野村史蹟保存会

【 参考・引用 】  碑文より



米森玄蕃戦死之跡(佐川町西組)

米森玄蕃元高は、長宗我部元親の土佐統一の時、高北隣郷の群雄諸氏が人質を出して無条件降伏する中、「大平氏の再興を約束がなければ降伏しない」と断わり、長宗我部元親も「降伏させれば火種が残る」として降伏を許さず、ただ一人、安並但馬率いる長宗我部軍を迎え撃って奮戦しするも城は一瞬にして壊滅し、城の南門大木戸の付近で戦死したそうながです。

その城の南門があった辺りにあった米森玄蕃元高の墓の跡に、昭和8年に建てられたのがこの碑じゃそうです。


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