南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

蓮池権頭家綱 - 源頼朝の弟・希義を討った一人で蓮池神社に霊を祀る

蓮池神社(土佐市蓮池)

[ 高知県土佐市蓮池・蓮池城址 ]


以前御紹介しちょります蓮池城址の詰の段に、蓮池神社が鎮座しちょります。

蓮池城 - 蓮池氏から長宗我部氏まで約430年幾多もの興亡を繰り返す 2016.10.23

蓮池神社(土佐市蓮池)

この神社は蓮池権頭家綱卿を祀る 
嘉応二年(1170)平氏の家臣近藤家綱が平氏荘園の守護として蓮池城を創建し蓮池姓を名乗った 
善政により権頭に任ぜられた後越知町柴折に刺客の手に倒れ遊行寺に葬られた
以来八百数年目に御霊を故山に迎えたものである
昭和52年4月24日
土佐市郷土史研究会
田村忠之撰 長瀬放亭書

【 参考・引用 】  石碑より


蓮池神社(土佐市蓮池)

蓮池権頭家綱は、平家方の家人で、平治の乱で敗れ土佐に流されちょった源義朝の五男で源頼朝の同母弟になる源希義を幡多郡の平田太郎俊遠らと監視しちょったがです。

平治の乱から21年後、兄・頼朝が平家討伐に兵を挙げるを聞き希義もこれに応じようと立ち上るを知った、蓮池権頭家綱と平田太郎俊遠らの追討軍に現・南国市の祈年山近くの蔦ヶ池で討たれるがです。

源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる  2016.07.15

源氏方の夜須行家の知らせで弟・希義の討死を知った源頼朝は伊豆右衛門尉有綱と夜須行家等に、蓮池権頭家綱と平田俊遠討伐を命じるがです。

そして、平田俊遠は幡多の平田城外で戦死し、蓮池権頭家綱は現・越知町遊行寺周辺で刺客に討たれたと言う。

蓮池城址の詰の段に蓮池神社の御祭神として祀られちょるのは、蓮池城を最初に築いたのが蓮池権頭家綱じゃったからだそうです。

蓮池神社(土佐市蓮池)

蓮 池 城 の 興 亡

ここに城が定められたのは、嘉応2年(1170)平氏の家人近藤家綱(蓮池権頭)が、平氏荘園の守護として居城したのに始まり、その後源頼朝の討手に滅ぼされた。
建久3年(1192)藤原国信が居城して大平氏を名乗り、広大な勢力圏を形成し、文化面でも優れた活躍をした。
天文15年(1546)幡多一条氏が東進し、大平氏を滅ぼし、一条氏の番城となったが、弘治3年(1557)には本山氏が一条氏を撃退して城を奪った。
永禄3年(1560)長宗我部氏と本山氏の争いが起こり、これを機に一条氏が城を奪回した。
永禄12年(1569)弘岡城主吉良親貞が一条氏を追い、その子親実が城主となったが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃し、こうして400年余、戦国武将が興亡を繰り返してきた蓮池城の歴史は、幕を閉じた。

【 参考・引用 】  説明板より




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脇本陣・長木屋 - 文化5年幕府天文方・伊能忠敬一行が滞在 

伊能忠敬緯度観測記念碑(香南市赤岡町)

[ 高知県香南市赤岡町 ]


約一カ月ぶりの記事の更新です。

今回は、以前御紹介した伊能忠敬が第6次測量で高知城下で滞在した辰巳屋のお話の3日前に、赤岡浦(現・香南市)に入り測量した事を。

辰巳屋伊藤傳右衛門邸跡付近 - 伊能忠敬が高知城下で三日間宿泊 2017.03.26

碑の正面
「伊能忠敬経度観測記念碑 北緯三十三度三十三分 香南市教育委員会」

碑の右面
「 伊能忠敬は享和元年(1801)幕府の命を受け実測による日本地図の作成に取り組んだ。文化5年(1808)土佐に入り四月二十七日赤岡浦の実測が行われ、この地を北緯三十三度三十三分と測量した。


伊能忠敬緯度観測記念碑(香南市赤岡町)

伊能忠敬測量地点 北緯33度33分

文化五年(1808)、幕府天文方一行の測量により、北緯33度33分の位置に杭が打たれたが、後年帝国陸軍の測量で再確認され、御影石に改められた。
戦後の道路舗装工事の際、小松邸角にあった石は放棄されたらしい。・・・

【 参考・引用 】  説明板より抜粋


そんで、伊能忠敬測量隊がこの日に宿泊したがが、石碑より西に約300m程の所にある、脇本陣・長木屋だったがです。

脇本陣・長木屋(香南市赤岡町)

当時(藩政時代)の赤岡浦は塩の道の起点でもあり、参勤交代のための本陣も置かれちょった商都として栄えた町で、何段もの水切り瓦を備えた土佐漆喰塗の町家が並んじょったそうです。

脇本陣・長木屋もその一軒で、蝋燭問屋として栄えた家じゃそうです。

脇本陣・<blockquote><p>長木屋(香南市赤岡町)

脇宿(脇本陣)長木屋

文化五年(1808)四月二十七日、幕府天文方伊能忠敬一行は赤岡浦を測量し、北緯三十三度三十三分と定めた際、一行の脇宿に当てられた長木屋惣次右衛門邸で、本陣は長木屋又佐衛門邸である。
また、参勤交代や藩主東方巡視の際は脇本陣に当てられたと伝えている。
文化年間、蝋燭の製造権獲得をめぐって高知城下の商人と競い、遂に蝋座株を獲得した記録を残す商家である。

【 参考・引用 】  説明板より


脇本陣・<blockquote><p>長木屋(香南市赤岡町)

築200 年を超える建物で、現在は「おっこう屋」と「喫茶、道」という商いをしよります。

店の前にまで商品が並べられちょるがが「おっこう屋」 ですけんど、パット見は如何見ても雑貨屋と骨董屋のようにしか見えんけんど、何でも「おっこう屋」の会員が持ち寄った商品も販売しよると言う、創作作家の作品の展示販売もするアトリエ的要素も含んだお店じゃそうです。

「おっこう屋」のHPの自己紹介にゃ、「おっこう屋 は、高知県香南市赤岡町横町商店街にあり、この町が好きで、この町を訪ねてきた人たちのための安らぎ、寛ぎの場・思い出作りの場、そしてお土産店として開設されました。」と、書かれちょります。

おっこう屋のプロフィール|Ameba (アメーバ)

ちょっと不思議な空間ですき・・・・・


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篠原の柏水 - 兄・頼朝の挙兵に立ち挙がるも破れ東走途中喉の渇きを潤す

篠原の柏水(南国市篠原)

[ 高知県南国市篠原 ]


偶々、南国市の吾岡山の手前で国道55号を左折して、田畑の続く道をJRの御免駅方面に走りよったら、水路の脇に立て札があり、何じゃろーと思うて近寄って見たら、このブログでも何度か取り上げちょります源頼朝の弟・源希義に関わる史跡じゃったがです。

篠原の柏水(南国市篠原)

篠原の柏水の由来

平治の争乱(1159年)で、源家棟梁源義朝は、武運つたなく平家棟梁平清盛の前に屈し頼朝(当時13歳)は伊豆の蛭ヶ小島へ、義経(牛若・・・当時13歳)は、京の鞍馬へ押し込められます。
当時3歳とも9歳とも言われる源希義は高知市介良の地へ配流され平家方監視の下、20数年間の陰忍自重の暮らしを強いられます。
希義は介良の地に配流中、土佐における平家方有力武将平田太郎俊遠の妹とも、俊遠の弟継遠の娘とも言われていますが平家方の娘を嫁に貰い隆盛、希望の二子、若しくは希望の一子を儲けました。

治承4年(1180年)12月1日兄頼朝の打倒平家に呼応するも、武運つたなく破れ土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家を頼り、愛馬と共に東走する途上喉の渇きをおぼえた希義はこの辺りで農夫に水を所望したところ、柏の木の袂からコンコンとわき出る泉を教えられ柏の葉で水をすくい喉を潤しその農夫に褒美として扇子を与えたという。
この故事により「篠原の柏水」として今に伝えられています。

尚この柏水と伝承される柏の木は往時からは3代目と言われています。
本当の樹種は「チシャノキ」でこの地は我国の東限で(最東端に生息)あり絶滅危惧種であります。

旭食品株式会社
源希義公顕彰会

【 参考・引用 】  説明板より


篠原の柏水(南国市篠原)

平家方の追手から逃れ、味方の夜須七郎行家の待つ野市方面に逃れている途中、此処で喉の渇きを潤したと言うがです。

馬上の源希義が喉が渇いたのであれば、当然愛馬も同じように喉を潤した事でしょう。

しかし、此処で費えた時間が生死を分けたのかも知れませんねー。

源希義が、更に逃れるも追手に追いつかれ討死したのは、此処から直線距離で約2Km程の場所になります。

源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる 2016.07.15


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