南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

松尾八幡宮 - 蓮池守護・大平氏の中山信家が勧請し、後に松尾城に移した城八幡

松尾八幡宮(佐川町)

[ 高知県高岡郡佐川町 ]


御祭神は応神天皇。

由緒は、八幡伝承記によると永正14年(1517)津野氏の傘下で松尾城に拠る佐川越中守は滅亡し、蓮池守護・大平氏の養子・中山信家が、大平領高岡の松尾八幡宮を古城山に勧請していたものを、弘治2年(1556)中村越前守信義が城北松尾山に移し、戦勝祈願、山上鎮護としたのが始まりじゃとか。

要は、この神社の背後にある松尾城跡の城八幡ながです。

因みに、大平領高岡の松尾八幡宮は、貞観3年(861)に土佐・高岡に来た人皇第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王が京都の岩清水八幡宮を勧請創建したと伝わる神社ながです。

松尾八幡宮(佐川町)

佐川町指定文化財 松尾城址

南北朝時代、佐川四郎左衛門が南朝方の重鎮として居城した跡で、佐川・永野・三野村を見下ろす要衝であった。
興国元年(1340)北朝軍と戦い敗退、翌年津野連合軍に破れ、この城を放棄すること。
その後、津野氏の縁者佐川越中守(中村氏)が占拠し、津野氏はこの城を前線基地として百八十年に及び覇を争った。
群雄争奪、城主の変遷を経た後、長宗我部氏の重臣・久武内蔵助の居城となったが、松尾山の水不足を嫌い、対岸の古城山に城を移したので廃城となってしまった。

平成二年十二月一日建之
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会

【 参考・引用 】 説明版より


松尾城跡は、この松尾八幡の裏から登れるようですが、地元の人に「今はハメ(マムシ)が多い時期じゃ止めた方がええぜよ」と言われ、この時は登頂を残念しちょります。

中村越前守信義 - 三野代官・三野信近の子で佐川松尾城城主 2017.08. 10
佐川越中守 - 戸波城恵良沼の戦いで主家・津野元実らと討ち死に 2016.09.05
蓮池城主大平氏累代の墓所 - 土佐一条氏によって土佐大平氏は滅ぶ 2015.11.27
松尾城址 - 長宗我部元親重臣・久武内蔵助が居城 2013.01.28
乗台寺 - 長宗我部家臣・久武氏の菩提寺 2010. 10.29

松尾八幡宮(佐川町)

境内傍に、新福寺跡の石碑もあったがでして、何じゃろうと思い調べたら、『わが町の文化財と旧跡』に下記のように記されちょりました。

神社明細帳によると(中略)、「松尾山、松尾八幡宮、一に曰く、新福寺松尾八幡、但佐川村総鎮守、右古城ニ勧請有之城主来歴不相知」とあって、山麓の新福寺鎮守の本地垂迹(仏が人々を救うため神の姿となって現れる)の神社だったとある。

【 参考・引用 】  
『わが町の文化財と旧跡』 佐川町文化財と旧跡編さん委員会(昭和56年)


元々は、松尾城の山上にあった松尾八幡が、現在、麓の新福寺跡に移されたがは、明治に起こった廃仏毀釈により明治5年1(1852)に村社として産土神(その人の生まれた土地を守る神。鎮守の神。)となり同8年(1875)に移ったと、同書には書かれちょります。

余談ながら、本地垂迹とは、日本に仏教が伝来した後の神仏習合思想で、それまでの日本の神さんを仏の姿に化身させて、日本の神さん=仏号にした権現であるとする考え方ながです。

例えば、四国の神社で見ると、琴平神社は大物主神=不動明王、 石鎚神社は石土毘古命=阿弥陀如来、土佐神社は味鋤高彦根神・一言主神=阿弥陀如来とかじゃし、一般にゃ市杵島姫=弁財天、秋葉権現=観音菩薩、大国主=大黒天、八幡神・応神天皇=阿弥陀如来という風に仏号があるがです。


で、ここ松尾八幡宮の場合も御祭神は応神天皇ですき、新福寺には阿弥陀如来が御祀りされちょったがでして、今は阿弥陀堂のみ残っちょります。


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大黒元衛門清勝 - 無双直伝英信流正統第11代宗家、先祖は杓田城城主

大黒元衛門清勝(高知市)

[ 高知県高知市 ]


先祖は、長宗我部家第6代・長宗我部満幸の五男が大黒氏を名乗った家系で、以前ご紹介しちょります大黒宗哲勝正は曾祖父になるがです。

大黒宗哲勝正 - 先祖は長宗我部家臣・杓田城主 2013.06.11

大黒宗哲勝正の次男で祖父になる馬廻百五十石・大黒文之丞衡勝が別家召出され御扈従二百石となり、嫡子で父になる大黒文之丞好勝が跡を継ぎ大目付を務め百石加増されちょります。

大黒宗哲勝正は、大黒文之丞好勝の三男として生まれちょりますが、長男は32歳で亡くなっちょり、次男は本家に養子になっちょりましたき家を継ぎ、安永6年(1777)馬廻組頭、天明2年(1782)大目付切支丹改役、翌年軍備御用兼帯となっちょります。

寛政2年(1790)65歳で亡くなっちょりますき、生年は享保10年(1725)頃かと・・・・・。

この大黒元衛門清勝さん、「無双直伝英信流正統第11代宗家」という、もう一つの顔を持っちょります。

古武道の抜刀術・居合について説明を調べてみると

居合術

抜刀術(ばっとうじゅつ)、もしくは居合(いあい)居合術(いあいじゅつ)とは、日本刀(打刀とは限らない)を鞘に収めた状態で帯刀し、鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形、技術を中心に構成された武術である。

【 参考・引用 】  居合術 - Wikipedia


また

英信流については、『高知県歴史事典』の「長谷川流居合術」の条に、「近世流伝した抜刀流の一派、出羽国楯岡の人・林崎甚助を流祖とするもので、その流れを汲む長谷川主税助(英信)が新しい工夫を加え長谷川流と呼ばれたが、現在では「無双直伝英信流」と改称、全国的に知られている」と述べられている。

 やがて、この流派が土佐藩に導入されて「御留流(おとめりゅう)」として保護され、藩内に広まり、継承されていく。幕末になると、十五代藩主・山内容堂がこの剣術に熱中した話がいくつか、語り継がれている。

【 参考・引用 】  『高知市歴史散歩』 
276 板垣退助と英信流(えいしんりゅう)-高知市広報「あかるいまち」2007年7月号より-
土佐史研究家 広谷喜十郎


土佐藩へは第9代宗家・林六太夫守政、10代・林安太夫政詡、そして11代・大黒元右衛門清勝と受け継がれ、ここから谷村派と下村派の2派に分かれて来ちょるようです。

以前ご紹介しちょります谷村亀之亟自雄さんは第15代、大江正路子敬さんは第17代の、何方も谷村派の宗家になるがです。

谷村亀之丞自雄 - 長谷川英信流十五代目 2011.08.21
大江正路 - 剣術は坂本龍馬も通った日根野道場に学ぶ0 2014.02.21



  



片岡の茶園堂 - 戦国時代、14代片岡光綱によって設けられる

茶園堂(越知町片岡)

[ 高知県高岡郡越知町片岡 ... ]


場所は、以前に御紹介しちょりますが同じ越知町片岡にある片岡の沈下橋の直ぐ傍の、県道18号・伊野仁淀線の道路脇に、この茶園堂はあるがです。

片岡沈下橋 - 仁淀川 2012.02.15

茶園堂(越知町片岡)

茶園堂と盆踊り

寺野城(黒岩郷)城主13代片岡茂光は、善政を施し城下に茶園堂を設けて、領民をして湯茶の接待をさせ、通行する旅人を慰労した。
そして、茶園堂に領民を集わせ、盛大な盆踊り会を催した。
14代片岡光綱は、片岡・法巌の2城を築き、片岡に移り住み、茶園堂も建てて接待を続けた。
永禄3(1560)年茂光の死後、その妻(長宗我部国親の妹)理春尼は、夫と兄の死を悼み、供養に明け暮れると共に村の幼童を集めて読み書きを教え、夫・茂光が遺愛の盆踊りを育成し、ここ茶園堂の庭、瑞応寺(黒岩郷)、天忠寺(黒岩郷)で毎年盛大な盆踊り会を催した。
片岡氏滅亡後も村人たちは絶やすことなく続けた。
後年、土佐藩執政野中兼山は、毎年供養の灯油3升を永代下賜として助成した。
これが現在も続けられている片岡茶園堂や瑞応寺の盆踊りである。

2004年8月
越知町教育委員会
越知史談会

【 参考・引用 】  説明板より


長宗我部国親の妹・理春尼と「瑞応の盆踊り」に関しても、以前に下記の記事で御紹介しちょりますき・・・・・。

理春尼 - 片岡茂光の妻で長宗我部国親の妹、菩提を弔い盆踊りを 2016.06.22



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