南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

中岡慎太郎遺髪墓 - 慶応3年京都近江屋にて坂本龍馬と共に暗殺される

中岡慎太郎遺髪墓(北川村柏木・松林寺跡)

[ 高知県安芸郡北川村柏木 ]


北川村の中岡慎太郎館後方になりますが、ちょっと南の山側に150m程ゆるい坂道を上がって行くと山門があるがです。

中岡慎太郎遺髪墓(北川村柏木・松林寺跡)

石段の脇に慎太郎遺髪墓の案内板があるだけで、山門にゃ寺社名の表札も無いけんど、山門をくぐると当時の境内中庭と思われる場所に松林寺跡の碑が建っちょります。

中岡慎太郎遺髪墓(北川村柏木・松林寺跡)

墓碑は、境内左手奥にある。

中岡慎太郎遺髪墓(北川村柏木・松林寺跡)

中岡慎太郎遺髪墓地

松林寺の参道を上がり、子安地蔵尊の奥にある中岡家の墓地。
慎太郎の墓は龍馬と同じ京都東山の霊山護国神社にもありますが、この北川村にも妻・兼の墓と共に慎太郎の遺髪が納められています。
中岡家の墓地は高知市潮江山にありましたが、集中豪雨によって崩れ、薊野に改葬され、そのうち旧墓石5基をこの地に移したものです。
ここに埋葬された遺髪は慎太郎が「禁門の変」の前に家族に宛てた手紙に添えられていたものです。

【 参考・引用 】  説明板より



中岡慎太郎遺髪墓(北川村柏木・松林寺跡)

遺髪墓にゃ「中岡慎太郎先生遺髪埋葬之地」と刻まれちょります。

また説明板にもあるように、横に妻・兼、父・小伝次、母・うし、姉・京の墓石が並んじょりますが、昭和47年9月15日に高知県下各地をおそった豪雨で高知市潮江山にあった中岡家の墓所が崩れ、薊野に改葬された時、そのうちの旧墓石5基がを此処に移されたがじゃそうです。

中岡兼 - 中岡慎太郎の妻 2013 06 27

中岡慎太郎は天保9年(1838)安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれ、名は道正、通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎、号は遠山・迂山など、変名は石川清之助(誠之助)。

安政元年(1854)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。
安政4年(1857)、野友村庄屋利岡彦次郎の長女・兼(かね)15歳と結婚。
文久元年(1861)には武市が結成した土佐勤皇党に17番目の血盟同志となり、文久2年(1862)、長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
文久3年(1863)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに脱藩し、同年9月、長州藩に亡命し、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となり、また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。

元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。
薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷する。
その後、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。
三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行き、慶応2年1月21日(1866年3月2日)(あるいは22日(3日))、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。

慶応3年2月(1867年3月)、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。
その後、薩土同盟についても同様に奔走し、まず、5月21日(6月23日)、土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松清廉(小松帯刀)・西郷吉之助との間で武力倒幕のための薩土密約の締結に成功する。

更に土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、6月22日(7月23日)、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村道成・後藤象二郎・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。

6月27日、かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。

11月15日、京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる(近江屋事件)。
龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったという。
11月17日に死去。
享年30。

【 参考・引用 】  中岡慎太郎 - Wikipedia




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濱五郎兵衛屋跡敷 - 初代は日和佐城主、赤岡で興した製塩業が町の繁栄に

赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)

[ 高知県香南市赤岡町 ]


赤岡町の絵金蔵と弁天座のある一角に「赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷」の説明板が建てられちょります。

赤岡浦大庄屋 濱五郎兵衛屋跡敷

初代濱五郎兵衛は日和佐城主であったが、主家細川氏の没落とともに所領を失い大阪天満へ隠遁。
慶長元年(1596)長宗我部元親の勧めで赤岡へ移住。
製塩業を起こす。
後年、山内一豊にも仕え、長宗我部遺臣団の一領具足の一揆を取り鎮め、その功により大庄屋を拝命。
竹林寺が菩提寺である。

【 参考・引用 】  説明板より


赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)


日和佐城主から赤岡浦大庄屋へ

今から約400年前の戦国時代、赤岡に塩田が造成され、塩市が立ち、町は塩を求める人々で賑わい、後に商都赤岡に発展したと言われます。
その塩造りに貢献したのは、浜五郎兵衛という元・日和佐城主の弟、日和佐権之守正儀でした。
天正5(1577)年 、五郎兵衛13歳の時、長宗我部元親の弟、香宗我部親泰が、阿波の海部城を攻略し、残る諸地域の侵攻を画策。
日和佐氏は、同年11月、この画策に応じて長宗我部に帰順しました。
天正10(1582)年 、五郎兵衛18歳の時、兄の備前守が中冨川の戦いで戦死したことをきっかけに武士を捨て、香宗我部親泰の勧めで大阪天満へ隠遁していましたが、慶長元(1596)年、五郎兵衛32歳の時、元親の要請をうけ、土佐赤岡に移住し、塩の製造を始めました。
「長宗我部地検帳」によると夜須庄横浜に四浜、岸本村に五八浜、赤岡浜に五二浜、今在家村(赤岡東部)に二一浜、吉川村に一〇六浜、合計二四一浜の塩浜があったとされ、塩の発展に貢献しました。
慶長5(1600)年、五郎兵衛36歳の時、山内一豊が土佐藩主になるや、一領具足の一揆を取り鎮め、功績により赤岡浦大庄屋として町づくりを任じられました。
以降、代々浜五郎兵衛を名乗り大庄屋を明治まで受け継ぎました。
なお、初代浜五郎兵衛は、51歳の時、阿波国主・蜂須賀家政から帰省勧告を受け日和佐に戻りました。

【 参考・引用 】  
『古道 塩の道を行く後編1 』日和佐城赤岡を商都にした浜五郎兵衛
広報こうなん 2011.10


赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)

山内一豊が土佐に入国の際にも、浜五郎兵衛宅に泊まったようです。

『山内氏時代史初稿』の慶長六年(一六〇一年)一月八日の条に、「是ヨリ先山内一豊大坂ヲ発シ二日甲浦ニ着シ、是ヨリ陸路ヲ経テ是日浦戸城ニ入ル」とある。
一豊の一行は、前年十二月二十五日に大坂を船で出て土佐をめざした。
 『家譜事実』には「五日彼地御発駕、奈半利ニ御一泊」とあるから、一月五日に甲浦を出発して、起伏の激しい野根山越えの道を進んで、奈半利で一泊している。
それは、長宗我部氏の遺臣の襲撃を懸念しつつの緊張した旅であった。
(中略)
次の七日には、赤岡の浜五郎兵衛宅にて泊る。
五郎兵衛は(山内一豊の弟)康豊の意向を受けて、前年から活動していた人物である。 

【 参考:引用 】  
256 山内一豊の入国
『高知市歴史散歩』 土佐史研究家 広谷喜十郎
高知市広報「あかるいまち」2005年9月号より抜粋引用



初代・濱五郎兵衛は51歳の時に阿波国主・蜂須賀家政(小六)に日和佐に帰住の招きを受け、三男・少兵衛と共に先祖の地・日和佐に戻り、五十石を拝領し寛永16年(1639)に病死したそうです。

赤岡に残った二男・長兵衛以降、その子孫は代々・濱五郎兵衛を名乗り大庄屋を受け継ぎ、明治に至ったそうです。

濱五郎兵衛さんが赤岡で起こした製塩業で塩市が立ち大いに賑わった事が、今日の赤岡の基盤になるがです。


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国分川支流・菱池川沿い土手の河津桜 - 2017.02.19

国分川支流・菱池川沿い土手の河津桜(高知市大津乙)

[ 高知県高知市大津乙 ]


場所は、国分川の支流・菱池川が国分川と合流する場所で直ぐ傍にJR土讃線の鉄橋がありポンプ場がある所です。

その菱池川と高知県食品工業団地の間に土手があり、100m程の土手の両側に河津桜が植えられちょり、今日2月19日の感じじゃと8分咲きぐらいかと。

国分川支流・菱池川沿い土手の河津桜(高知市大津乙)

気温が上がりゃ、あと2~3日程で満開になるがじゃないかと思われます。

国分川支流・菱池川沿い土手の河津桜(高知市大津乙)


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