南国土佐へ来てみいや

南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

須崎城址 - 三つの峰からなる山城で元親の三男・津野孫次郎親忠の居城

須崎城跡(須崎市)

[ 高知県須崎市 ]


須崎城は、JR須崎駅のある須崎港の西側に南北に連なる三峰を称する城址で、地図じゃ城山と記載されちょりますが、地元じゃ古城山とも呼んじょります。

須崎城跡(須崎市)

JR須崎駅の連絡橋から見た須崎城址で、左側が南になるがです。

須崎城跡(須崎市)

JR須崎駅の南側にある船溜まりから見た須崎城で、右側の山は桑田山(そうだやま)。

須崎城跡(須崎市)

須崎湾の北側にある三つの峰からなる山城で、南の峰を鰯振城(鰯招城)、中の峰を犬帰城(犬戻城)、主郭のある北の峰を鳥越城と言い、三城を合わせて須崎城というがです。

『土佐州郡志』には「古城址二所 左山上津野孫次郎親忠所城旧礎尚存ス」


とあるように、津野孫次郎親忠が姫野野々から本城を須崎に移した時に築いたと伝えられちょります。

須崎城跡(須崎市)

古城山(城山)の東西に走る県道310号線の北側に併設されちゅう川端シンボルロードの一角に、「天正時代の須崎」と言うイラストの描かれた説明版があったがです。

【説明板参考引用】  
監修・文・文学博士: 下村 效 氏
イラストレーション:伊藤展安 氏


この説明板に描かれちゅうイラストは、天正15年(1587)の『津野洲崎地検帳』を復元した絵図じゃそうですが、そこに津野孫次郎親忠公の居城も描かれちょります。

須崎城跡(須崎市)

その絵図からすると、現在の発生寺から西側の高知地方裁判所周辺が津野親忠公屋敷で、現・NTTの辺りが山内右衛門大夫の土居があったがじゃないかと思われるがです。

絵図でも分かるように、城山の東側は須崎湾、西側にゃ池ノ内池(現・糺池)に囲まれた、天然の要害じゃったがです。

因みに、中の峰を犬帰城 (犬戻城)と言うのは郷土史家・橋詰延寿先生の『須崎風土記』にゃ、「三方を海にとりかこまれまして、北の方がただ一か所鳥越坂で多の郷につづいています。全く要がいの土地でございましてイヌが出て行っておっても通ることができないので帰ってくる。そこでイヌ帰りの城というわけだと伝えています。」とある。

【参考引用】  『須崎風土記』 橋詰延寿・著 昭和36年 



須崎城跡(須崎市)

写真は、南の魚市場通り(海岸傍)から見た、古城山(城山)の南の峰で、須崎の町民たちが普通に仰ぎ見る古城山(城山)の姿ながです。

オンちゃんの母校・須崎小学校の校歌にも「♪ 明けゆく 空の輝きに 紫匂う 古城山」と歌われちょります。


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西之寺観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場第8番

西之寺(南国市)

[ 高知県南国市岡豊町常通寺島 ]


後で分かったことじゃけんど、県道252線の方から参道のような道があったけんど、この時にゃ気づかず周辺をうろうろ探し回り、 見つけたがは西之寺の西側を流れるこんまい用水沿いの裏口から入ったようながです・・・・・。

用水路に架かるコンクリートの橋を渡った裏口からの境内右側にゃ、お地蔵さんが並んじょりました。

西之寺(南国市)

境内にゃ、写真の観音堂しか無いけんど、実は此処は、長宗我部氏の菩提寺・常通寺があった場所ながです。

長宗我部元親が、岡豊から現・高知城の方に一時、居城を移した際に常通寺も移っちょりますが、その後も信仰を受けちょったそうですけんど、長宗我部氏が関ヶ原の戦いに敗れ滅びると、何時しか衰退していったがじゃそうです。

常通寺跡 - 元は岡豊から移した長宗我部氏の菩提寺が始まり 2013.03.30

西之寺(南国市)

その後、土佐藩第2代藩主・山内忠義が遠乗りで此処に来た際、光り輝く聖観音を見つけ、観音堂を祀ったがが西之寺観音堂の始まりじゃそうです。

西之寺(南国市)

『南路史』にゃ、『五臺山末』とありますき、四国霊場第三十一番札所・五台山竹林寺の末寺じゃったがです。

また、御本尊の聖観音菩薩は行基・作じゃそうです。



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野田城址 - 一条氏との戦い後、野田甚左衛門改め宿毛甚左衛門と名乗る

野田城址(南国市)

[ 高知県南国市下野田 ]


周辺は宅地と水田の広がる一角に、城八幡が祀られちゅう野田城址はあるがです。

詳細は分からんけんど、ここ等が詰めだったがでしょうか・・・・・。

右側の道路脇に、「野田城跡」の案内板があった。

野田城址(南国市)

野田城

大将軍の宮の邊(辺)りにあり、秦(長宗我部)の国親支城也。
城主野田甚左衛門、之を監す。
野田氏の世系詳かならず。

【 参考・引用 】  『土佐古城略史 全』 宮地森城・著


将軍神社 - 変わったネーミングの神社 2010.12.15
瑞松寺観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場第12番・聖観音菩薩 2017.08.04

野田甚左衛門は、第20代岡豊城主・長宗我部国親、元親の時代の人で、初代・野田氏を名乗ったのは、第6代・長宗我部満幸の四男・俊吉に始まると言う。

因みに、長男は家督を継ぎ七代目・長宗我部兼光となる。
次男は広井氏。
三男は中島氏。
五男は大黒氏となる。

野田城址(南国市)

野田甚左衛門は、第21代岡豊城主・長宗我部元親の時代の野田城主じゃったがです。

天正3年(1575)に長宗我部元親が幡多・一条氏との戦い後、宿毛城を与えられた後には、姓を改め、宿毛甚左衛門と名乗るがです。

『土佐物語』には、元親は、「長宗我部家どんな武辺者(勇敢な武士。武事にすぐれた人)が出ても、先陣は桑名弥次兵衛、中陣は久武内蔵助、後陣は宿毛甚左衛門と心得よ」と遺言したとか・・・・・。

詳しいことは不明じゃけんど、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、長宗我部家改易後は、1500石で藤堂高虎に召抱えられたと言う。

最後に、余談じゃけんど、「七人みさき」でも知られちょります吉良親実が、天正14年(1586)長宗我部元親の嫡男・信親が九州・戸次川の戦いで戦死して跡継ぎ騒動が起こった時、長宗我部元親の怒りを買い切腹するがですが、この時、介錯したのが、検使役じゃった宿毛甚左衛門だったと言う。

吉良親実 - 吉良神社は七人ミサキ伝説の吉良親実が御祭神2015.08.26


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